人間はオートマトンではない/応答の真っ当さ


夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性


そのようには生きられない徳保隆夫さんによる記事)

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

インド人の神様 そのようには生きられない・2

夏のひこうき雲 - むしろそのようには生きられない

そのようには生きられない・3

今ココ。


以下も「応答」にはなっていないと思います。読書しているときの頭の中を公開しているようなものです。別に左近さんを説得したいわけではない。自分の中で問いと答えをグルグルやっている、その過程の記録なのです。

 そのようにして、きちんと応答してくださってありがとう。
 こういう場合にあんまり議論をするべきではないのだろうと思いますが、徳保さんの中での問と答えのグルグルにご参考になれば、と私なりに、とくに議論という構えた形でなく、今回もうちょっとおつきあいしてみます。ご参考になれば幸いですが、ならなければそれはそれで仕方ないかなと思っています。


 ただ、たいへん重要な事柄だと私は思っているので、読みづらい記事だとは思いますが、よかったら他の方も読んでみてくださって、私の言わんとする意図を汲んでくだされば幸いです。(記事中の引用の形式など、不揃いな点があればご容赦ください。)


 あと、徳保さん、よかったら、今後は私のブログに言及される際にはトラックバックを送ってくださると、言及されたのがわかりやすくて助かります。「トラックバックされた=何か私からまた反応しなければならない」とは私は考えていませんので、その点のご心配は要りません。

1 「謎」なキーワード群について



ふたつの例え話をしましたが、これって左近さんの基準で「不当な基準で当人の努力ではひっくり返せない属性を理由に人格を断定」に該当するのでしょうか。それがよくわからない。キーワードの定義が謎なので、質問には答えられません。
 該当しないと私は思います。ですがそのことについてはいったん後回しにし〈「一応、質問への回答」について〉という項で説明するとして、キーワードの定義についてもう少し説明します。

 (2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことのうち、(2)は言葉の意味について説明をする必要はないと思うので、ここでは触れません。


左近さんが書かれた「人格/思考様式/言動」を読んでも、「人格」とは何か、よくわかりません
 「人格」というのは、

  1. 具体的な言葉、行動
  2. 思考のパターン、発想、あるいはもう少し大きく世界観
  3. その人のコアな部分、人格そのもの
 私が誰かと向き合うときには、おおよそ上のような3つのレイヤーに分けて相手のことを認識している。3と2を区別して考えることが重要だと思っている。
 ここで3番目に挙げているもののことであり、

その人のコアな部分、人格そのものについては、これは他人が(そして、本人も)どうこう判断して評価するべきものではないと思っている。

 また、他人にも本人にも、ある個人のコアな部分、人格そのものに対して評価や判断を行う能力はないだろう。

 これはもはや神の領域に属することであって、同じ人間が「お前の価値はこれこれ」「私の価値はこれこれ」と判定できると思うのは相当傲慢だと感じる。

 という説明をしたものです。

 尊厳、良心、魂と呼ぶこともできるでしよう。というとセンチメンタルに響くので失笑をかうかもしれませんが、およそ人間にそのようなものをまったく想定しないことはできないのではないかと思います。逆に言えば、ロボットがいかに人間のように振る舞えたとしても、そこに何か欠落したものを感じとることができるとすれば、その、ロボットに欠落している部分です。

 別の言い方をすれば、思考や価値観の可塑性の源となる、自由意思といってもいいかもしれません。
 あるいは、「人格的関わり合い」とか「人格的成長」という概念のいずれにも含まれる、ある要素のことです。


 さらにいえば、前回『考えるヒント』*1から引用した、

人間の外部からの観察が、それほど完璧な機械ならば、その性能は、理論上、人間の性質を外部から変え得る性能でなければならない筈である。それなら、人間を威壓する手間を省いて、人間を皆善人に変えればよい。さうすれば彼等が、もはや人間でない事だけは、はつきりわかるだろう。

 私は、徒な空想をしてゐるのではない。人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまふ。これはいかにも不思議な事ではないか。人間の内部は、見通しの利かぬものだ。そんな事なら誰も言ふが、人間がお互ひの眼に見透しのものなら、その途端に、人間は生きるのを止めるだらう。何といふ不思議か、とは考へてみないものだ。恐らくそれは、あまりに深い真理であるが為であらうか。ともあれ、良心の問題は、人間各自謎を秘めて生きねばならぬという絶対的な条件に、固く結ばれてゐる事には間違ひなさそうである。仏は覚者だつたから、照魔鏡などといふろくでもないものは、閻魔に持たしておけばよいと考へたのであらう。

 にいう、「良心」です。


 「人格を断定することは問題だ」と主張しているときに、そこでいう「人格」を厳密に定義すること自体が、およそ人というものの持つ人格の断定につながるから困難な行為だ、というようなことは、上の引用文からしてもなんとなく理解していただけるのではないかと思うのですが。


 『考えるヒント』のほかには、「人格」的関わりとは何かということについて、マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』が大いに参考になると思います。私はたいへん教えられました。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)


 人間は*2オートマトン - Wikipediaではないから、応答を真っ当に行うことが可能だ。ダジャレを使って本書の内容の一部を私なりに言い換えると、このようになります。


 と、このあたりで「断定的な評価を下すこと」にも関わってきます。「人格」についてこれだけ書いておけば、相手の人格について「断定」的な評価を下すことについてはもはやあまり説明は要らないのではないのかと思うのですが、エイヤッと書いてみましょうか。
 徳保さんは以前「旧約聖書を知っていますか」が面白いなどの記事を書かれていたので、少しは聖書にご興味がおありかと思うのですが、聖書で言えば、私の念頭にあるのはマタイによる福音書7章1節2節

人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたが量るそのはかりで、自分も量り与えられるであろう。

 ということです(今回はとりあえず口語訳から引用しました)。

 これをもう少し、クリスチャンでない人にも受け容れられやすい形で書いたのが、


 誰か他の人に対して「救いようがない」などと言う人は(どなたにどういうタイミングで言われたのか知りませんが)、おそらく人間の可塑性や議論・対話の価値を(そう言ってしまった時点で)相当低く見積もっているのだろうと思います。そのような姿勢は、自分自身が対話によって考えを深める可能性をもほとんど無くしてしまうことになるし、自分をも断罪してしまうことになる(ただ、私はそのような姿勢に陥ってしまっている人すらも"開かれていく"可能性があると思っているし、断罪してしまいたくないと思っているけれど)ので、残念ではあります。
 と以前徳保さんに書いた部分です(今回の引用にあたっては、脚注の部分を明示的に、直後に括弧書きの形で示しました)。


 ただ、嘆き・ぼやきは私の基準ではオッケーです。イエス・キリストもよく嘆き、よくぼやいていました。なんで私の基準ではオッケーなのかは、この記事の後の方で、クリスチャン以外の方でも受け容れられやすいと思われる部分について書いておきました。



天王星人はいま大殺界なんだって」という人は、天王星人の可能性を全否定しているか?
 まず、そもそもその鍵括弧内の発言は、「〜なんだって」と伝聞であることを明示しているので、伝え聞いた内容の真偽については一定の留保がなされている以上、発言者が断定しているとは言えないと思います。

 そこで「天王星人はいま大殺界です」という、より直接的で断定的な発言について考えてみます。

 としても、「大殺界」というのはよく知りませんがその人をとりまく運勢の一態様なのでしょうから、人格についての言及ではなさそうです。


 知り合いが「あんたは天王星人だから人の話を聞かないで、話し下手なくせに自分の事ばかり話す」と言われて激怒していました。「自分の事ばかり話すのはあいつなのに。しかも天王星人だからとか言われたら、自分ではどうにもできないだろ!」と。
 という例のほうがより適切な例でしょう。

 これに「自分はそうじゃない」と反論すること自体が、話し下手なくせに自分の事ばかり話すということにあてはまってしまうので、予め反論が無効にされています。可能性を全否定という表現がふさわしいかわかりませんが、


人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえると思う。それに、誰か他人の人格を断定することによって、その相手との人間関係はむしろ崩壊してしまうのだろうと思っています。
 という説明によくあてはまっているとは思います。

2 血液型性格診断のうちのいくつかのケースを含めて、およそ「(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すこと」の問題について


 なぜ問題か、どう問題かということは、拙いながらも私なりにはずいぶん書いてきたつもりですし、そのうちのいくつかは今回の徳保さんとの一連のやりとりでも引用しておきました。

 別の角度から言えば、たとえば(1)に該当するかどうかはちょっとわからないこともありますよね。客観的な真偽を判定することが比較的容易な数学の証明でさえ、その分野の他の研究者による検証にだいぶ時間がかかることがあるぐらいだから。
 だから、せめて(2)(3)のような言動に出ることは控えておこうという観点からも、(2)も(3)も問題といえると思います。

 このあたりのことは、同じ話題に関連して
http://d.hatena.ne.jp/mutronix/20041201#c1101917482
 にコメントとして書きました。


 あとは

 もご覧ください。なお、負のピグマリオン効果というのも十分存在が推定できると思っています。

 メリットとデメリットを考慮に入れて天秤にかけるとき、私はこうしたデメリットも考慮に入れていますが、徳保さんはこれまでの記事からは考慮に入れていないように読めました。そこが一つの大きな違いなのだろうと思います。


 関連リンクとして、インターネットで読み解く!「血液型性格分類とメディアリテラシー」[ブログ時評02]も有益かもしれません。夏のひこうき雲 -  血液型と星座と疑似科学、統計の「ウソ」、情報リテラシートラックバックがあった記事で、(2004年12月5日の時点での)関連ページのまとめとして読みやすい文章になっています。

3 一応、質問への回答について


 そのいちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする例は、書類の数字を「検査」しているのであって、人格を検査しているのではないと思います。
 たった一人の嘘のために他のみなまで偏見を持たれるのは理不尽というのは、おっしゃる通りです。だから、私なら「新人だからってみんなが嘘つきと決まっているわけでもないし、私は他の新人たちがちょっとかわいそうな気がするなあ」とは言うかもしれません。これは倫理的な観点からの批判と言えば言えるでしょうけど、それだと言っちゃいけないのかな。まあもちろん言わないかもしれませんが。
 ただ、「こんなことになってるけど、めげないでね」ということは、(ウソの報告をした新人も含めて)新人たちに言ってあげたい気がします。


 部長室に怒鳴り込んだ女性社員の例え話の部長が、女性社員の話を聞かないのは、その時点で女性社員がギャーギャーわめいているからであって、「女性が感情の動物だから」ではありませんよね。
 なお、その「女はやっぱり感情の動物だな。これだから困るんだ」というセリフは、その状況においては批判すべき暴言とまでは思いません。いずれも程度の問題ならば、極端でない事例も質的には同質であって、NOというべきなのは変わらない、ということになるのではありませんか。もちろんNOと言う程度は変わってくるわけですが。と私は書きましたが、その例ではNOというべき程度がかなり低く、逆に感情的混乱の要因にさらされた人のぼやきとして許容される程度が高いと思うからです。(ぼやくことで感情的な混乱と不合理な事態になんらかの解答を見いだそうとしているわけで、その解答が客観的には誤りだった場合であっても、一応ストレスは軽減することができます。そのようなニーズも考慮するべきだと思っていますし、そのような感慨の吐露まで牽制する意図はありません。)

4 科学的事実を倫理によって封殺することに賛成しないという考えについて


 以下、この項は徳保さんの主張一つ一つに対しての反論ということには必ずしもなっていませんが、現時点で私は結論的には徳保さんとやや違う立場にいるということを書いてみます。


 まず、科学というのは何か、ある事柄を事実だと言うための強力な根拠ないし権威というよりも、ひどく懐疑的な態度ゆえに常に検証の余地を残しておくためのプロセスだ、と私は思っています。たとえて言うなら民主主義のようなもので、それ自体が権威として信頼に値するのではなく、何かを信頼できないからこそそのような手法をとるのです。
 「科学は信頼できる」とか「民主主義は信頼できる」とかいう態度は、筋としては順番が違っていて、「人間の理性は信頼できないから科学的手法を用いる」「人間の理性は信頼できないから民主主義という形態がまだまし」ということです。(ちなみに民主主義というのは、みんなの言うことは正しいという理由で採用されているのではなく、「社会としては多数派の考えで動かざるを得ないけれど、多数派の意思決定の過程に少数派の意見も組み込む余地を残しておこう(そしてどちらが正しかったか、後で検証可能なようにしておこう)」ということです。)


 だから、科学的事実という概念はちょっと概念としてよくわかりません。おそらく「客観的な真実」というようなことでしょうけど、私たちが何かを主張するとき、客観的な真実というのは認識できません。
 おそらく、「一定の手法によってまあ妥当だろうと思われる事柄について、倫理的な観点から、その事柄の指摘・主張を控えさせることには賛成できない」という趣旨なのかもしれませんが、このような表現に引き直せば、それほど説得力を持たないことがわかるでしょう。


 次に、(すぐ上の段落で述べた事と順序が前後しますが、)倫理は、何かを封殺したりしないと思います。

 倫理というのは、これをすべきか、すべきでないか、という個人のなかの規範です。私が押しつけるからとか、社会の多数派が押しつけるからという理由で存在しているわけではありません。私としては、「倫理」と社会の「道徳」を混同して使うことは避けたいと思っています。
 社会のどのような分野においても、個人が関与する以上、それぞれの個人の倫理によって意思決定がなされているわけです。

 ただし、具体的な個々の相手に対しては「あなたはこういう言動に出ていますが、その発言はこのような弊害を伴うと私は思います。あなたはどう思いますか」という語りかけはできますし、その返事に耳を傾けることはできます。そして、場合によってはすべきだと思っています。


 最後に、私の考えを書きます。

 事実だ・真実だということにかなりの確信を持っている事柄であっても、それを主張すべきでないと判断することはありえます。その事柄の主張によって看過できない結果を生じると思える場合などです(例として、他人の高度なプライバシーの暴露や、ひどく猥褻な表現、セキュリティ上公開されると重大で取り返しのつかない被害が生じるような事柄)。看過できるかどうかという基準を倫理といいます。また、上にも書いた通り、論理の積み重ねや事実認識において誤っている可能性は常にあるので、その意味でも、影響の大きい行為をする際には慎重でなければならないと思います。


 だから、私の考えをなるべく簡潔に書くとしたら次のようになるでしょう:


 倫理に反する行為を行う誘惑に負けて、科学をその隠れ蓑にしてはならない。


 典型的には、たとえば人間を生きたまま解剖することがそうです。これは典型的な例であって、「極端」で「例外」的な例ではありません。倫理に反するが科学には貢献する、つまりより正確な知見の獲得に役立つ行為の典型例です。

 徳保さんは魔道に墜ちているなどとひどいことをかつて言われたそうで、私は大いにフンガイするのですが、科学を口実にした技術の追求と、倫理が衝突したときに、倫理を無視する人は、いわゆる*3魔っ道・サイエンティストということになってしまいます。もちろん何が真っ当かは(くどいですが)最終的に自分が判断することです。


 なお、便宜上ここで以下の問いにも答えておきます。


左近さんの質問でも、「それは事実か?」がメインテーマになっていますよね。結局、そこが崩されたら(2)も(3)も吹き飛ぶ。だから重要なのは圧倒的に(1)であって、他はどうでもいいのです。

 いいえ。それだけがメインテーマではないし、他はどうでもよくありません。どうでもいいなどと言われると私は大いにフンガイします。(フンガイの結果がこの記事であり、かつての血液型関連の記事群です。)

 私はその質問の直後に、


私は、「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないと思っています。
 と書いており、これがメインテーマです。(ア)開発されないし、(イ)開発されたとしてもそのようなものを使うべきでない。(2)も(3)も(イ)に関わります。
 私が(ア)(イ)のように考える理由は、さらにその(つまり、上に引用した私の文の)直後に、関連すると思われる部分を、手元の小林秀雄『考へるヒント』昭和40年第7版56頁、「良心」という文章から引用してあります。この記事の「1」でも引用した部分です。

*1:ここでは書名には表記として新仮名遣いを用いました

*2:『我と汝・対話』が触れているのは実は人間にとどまらないのですが

*3:別にいわゆってない。