むしろそのようには生きられない
夏のひこうき雲 - 血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性
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そのようには生きられない(徳保隆夫さんによる記事)
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夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び
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今ココ。
1
部品によっては不良率0.01%とかそういったレベルの話になっていて、それを超えると「要注意だから全数検査」となったりします。過半数なんていう基準じゃない。こういうのを見ているから、私は「一部の人間のせいでみんなが色眼鏡で見られる」のが悪いことだとは思わない。危ないと思ったら全数検査でいいのです。
質問させてくださいね。
- 人間の人格の
検査
は、例えばどのような方法で行うのですか? 検査
の結果は誰がどのように判定するのですか?- それは「断定」といえますか?
- その判定を行う人の人格については、誰が
検査
するのですか? - その評価の対象は、果たして「人格」なのですか?
私は、「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないと思っています。関連すると思われる部分を、手元の小林秀雄『考へるヒント』昭和40年第7版56頁、「良心」という文章から。(今古い版のものしか見あたらないので、ところどころ旧字旧かな(?)で失礼します。)
人間の外部からの観察が、それほど完璧な機械ならば、その性能は、理論上、人間の性質を外部から変え得る性能でなければならない筈である。それなら、人間を威壓する手間を省いて、人間を皆善人に変えればよい。さうすれば彼等が、もはや人間でない事だけは、はつきりわかるだろう。
私は、徒な空想をしてゐるのではない。人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまふ。これはいかにも不思議な事ではないか。人間の内部は、見通しの利かぬものだ。そんな事なら誰も言ふが、人間がお互ひの眼に見透しのものなら、その途端に、人間は生きるのを止めるだらう。何といふ不思議か、とは考へてみないものだ。恐らくそれは、あまりに深い真理であるが為であらうか。ともあれ、良心の問題は、人間各自謎を秘めて生きねばならぬという絶対的な条件に、固く結ばれてゐる事には間違ひなさそうである。仏は覚者だつたから、照魔鏡などといふろくでもないものは、閻魔に持たしておけばよいと考へたのであらう。
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反証されても撤回しないケースだけを「断定」と呼ぶなら、ほとんどの人は滅多に「断定」なんかしていない。
ほとんどの人は滅多に「断定」なんかしていない
というのは誤りだと思いますよ。現に徳保さんはご自分の挙げた具体例をそれは「人格」に対する「断定」ではないと反証されても、撤回していないわけだし。
それに、ほとんどの人がどうかという話でいうなら、ほとんどの人は犯罪を犯さない。しかしそれでも防犯対策というものは必要なわけですよね。
それから、
という部分ももう一度お読みください。
ただ、こうした事柄は、極端な事例が出てからNOといっても遅い。いずれも程度の問題ならば、極端でない事例も質的には同質であって、NOというべきなのは変わらない、ということになるのではありませんか。もちろんNOと言う程度は変わってくるわけですが。
2
けれども私の観察するところ、場を改め静かに話を持ちかけてもなお門前払いするのは、よほどバカな人だけです。
よほどバカな人
は、おそらく徳保さんの想像している以上に多いのだと思いますよ。「いんちき」心理学研究所 | 「血液型と性格が関連している」という差別にたくさん実例があります。よほどバカな人
の突発的振る舞いというわけではなく、複数の企業が組織としてそういう意思決定をしてきたわけです。ほかには、例えば細木数子に心酔し、その教義を振りかざして聞く耳を持たない人だって、知っているだけでもけっこういますよ。そのほか、メディアによる影響力という結果から推し量るだけでも少しはわかるでしょう。
そして、なぜ「人格」を「断定」された方が、「場を改め静かに話を持ちかける」という負担を事後的に負わなければいけないのか疑問です。それ自体心理的な負担であるだけでなく、その行為だけでかなり否定的な評価を受けるような負担です。そういう手法を使うと、たとえば、利権団体による脅しまがいの行動として非難されてしまいかねませんよ。
AB型云々だってたいてい同じこと。ヘンなことをいう奴がいる、何故だ? AB型だから、ということにしておく、と。本気でそう信じ込んでいるケースがどれだけありますか。「当座の仮説」という認識のある人が大半でしょう。首尾一貫したことをいうAB型の人に対して、「いやこいつはAB型だからきっと裏で逆のことをいってるんだ」なんて、血液型だけを理由に確信するような人は例外ですよ。態度や表情にうまく言葉にできないもやもやした疑念を抱いたときに、「AB型だから」というラベルを貼り、それを理由として口にすることはあっても、実際の思考がその言葉通りの人は珍しいのでは。
本気でそう信じ込んでいるケース
については既に挙げました。それから、もう一度念を押しますが、当座の仮説
という認識ならば、「人格」を「断定」しているわけではありません。だから、
という私の考えへの批判にはなっていません。
いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。
また、もっぱらほとんどの人
がどうなのか、大半
かどうか、例外
かどうか、珍しい
かどうかを問題とする徳保さんの態度は、以前、徳保さんからトラックバックがあったときに以下のように書いたときと同じ態度に思えます。
ただ率直に、
徳保さんはむしろ多数派か少数派かをメルクマールになさっているように思える。少し内容に入るけど、母殺し(未遂)が「少数派か多数派か?」と考えることにそもそもどういう意味があるのだろうか。刑事政策的観点?それにしても……パーセンテージで50%を超えない犯罪は放置する、という姿勢の言明かもしれないが、やや奇異に感じる。さらに少し踏み込むが、あるいは「私は多数派に屈しませんよ、あえて違う考えを言いますよ」というスタンスを宣言することで自己紹介とされたのだろうか。批判的なトラックバックの議論の例を上で書いたが、どちらを多数派とみるかによって簡単に変わってしまう。偽悪とかの問題にも絡む。強きをくじき弱きを助けていればそれでいいわけではない。
どちらが多数派かなどという勢力争いには関係なく、ただ率直に行為の是非や当否を自らのうちで問うべきではないのだろうか。
という命題の真偽を考えてください。徳保さんは
いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。
ごく狭い範囲に限定して反応しますと書いている割には、この命題に関連する社会的な配慮から派生するあれこれと、話を一緒くたにしているのではありませんか。
3
もし女性は感情的で、AB型は二重人格で、感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら、その対応は別に間違っていないと私は考えます。どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。と主張する人には、甘んじて外道と呼ばれます、と私は答えます。
〈徳保さん自身が外道と呼ばれることに甘んじるかどうか〉が重要なのではなく、〈その行為を自分はすべきかどうか〉が重要なのではありませんか。
それと、〈感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら〉と徳保さんは書いていますが、何に価値を見いだすかというのは価値観の問題なので、立証が可能な事柄ではありません。
4
確度の低い仮説は言葉にしないという理想を掲げるのはいいけど、現実には無理だというのが私の観察です。AB型は云々なんて信じているわけじゃないけど、そういう言葉があると便利、それが断定表現の内実ではないでしょうか。
話がずれていませんか。
私は確度の低い仮説は言葉にしない
という理想
などは掲げていません。むしろ、私は前回
と書いています。
徳保さんのおっしゃる主旨はわかるように思います。他人の将来の言動については、経験から推測によって一定の予断を積み重ねていかないと、およそ対処不可能となり、日常生活を送ることは困難でしょう。その過程で、どうしても偏見と言われかねないような一定のバイアスはほとんど必然的にかかるといってもいいかもしれません(良い悪いは別として)。また、個人的な心情の吐露や、日常的な会話のレベルでは、もっともらしさや確度の高さについて厳密な表現を常に行うことはほぼ不可能でしょうし、常に行うことが適切だとはまったく思いません。
ただ、そのことと、今回の件は別の話題です。
それに私は、日常生活における断定表現
が問題だとは一度も書いていません。むしろ私は(以下、上記に同じ)。ここまでの記事を参考に、「断定表現」と「断定的な評価を下すこと」の違いを意識してください。
「女は感情でモノをいうからな」といって話を聞かない人の本心は、多くの場合「頭を冷やして出直せ」です。差別心が全くないとはいわない。けれども私の観察するところ、場を改め静かに話を持ちかけてもなお門前払いするのは、よほどバカな人だけです。だから「女性が常に感情的な発言しかしないという主張は誤りだ」と反証したって、「そんなことは分かってるよ」と怪訝な顔をされるでしょう。
それも、ずれています。常に
としかしない
などという、相手が言ってもいない表現に改変して強い批判をする人を例に挙げることによって、批判をする人を滑稽でおかしな人として描いています。
5
以下の(1)(2)(3)のうち、(1)のみが問題で(2)(3)は問題視するべきではないというのが徳保さんの出発点ですよね。
いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。
くどいですがもう一度まとめます。
「(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことは問題だ」ということと、「人の言語コミュニケーションは、「当座の仮説」を必要とする
」ということは、お互いに対立する考え方ではありません。言い換えれば、後者は前者に対するアンチテーゼにはなりません。だから、前者に対する批判として、後者のようなことを述べても意味がありません。
さらに、後者については、既に書いたとおり、私は同意していることを示しています。同意していることを私が示している以上その意味でも、何度書かれても私の記事に対する批判にはなりません。
しかし、徳保さんは、私が同意していないかのように書かれているので、おそらく私の記事に対する批判として書かれているのでしょう。
そこで私の記事に対する批判として読んだとしても、今回の記事中で何回か触れたとおり、テーマがずらされています。意図的にか無意識にかわかりませんが、毎回、ミスリードを誘い、私(左近)の記事に対する批判には根拠があると思わせるようなずれ方です。「不当な基準≒論理的に破綻している判断基準」については、徳保さんも問題だと認めているはずですから、そのようにテーマをずらすのは避けてください。あるいは、論理的な破綻に気をつけてください。「一応別のテーマだが」と断って提示するのはかまいませんが。
6
徳保さんの考えについて意見を述べる前に、ほとんど「それは批判になっていない」ということだけで、これだけのスペースと労力と時間を費やしてしまいました。最後に、2005年に徳保さんからの反応に対して書いたことを、もう一度書きます。
私の前回の記事 ポジ・ネガと多数派・少数派の構図を重ね合わせることの危険性につけられたはてなブックマークでは、トクホンの根本的なところに言及した文章って珍しいだとか、核心突いたというコメントも見かけた。私の書いた記事をほめてくださっているようなので悪い気はしないが、私は誰か人間の根本的なところとか核心を突くというような姿勢に対してはかなり自戒している。
そもそも誰かを完全に理解することなど人間には不可能だし、何か理解したように思ってもそれをことさらに「あの人はこういう人だ」とわかったようなことを言って断罪するのはまったく傲慢で不当なことだからだ。
だから、人間そのものに対してどうだとは言わないようにしている。感謝や尊敬の念が抑えられないときには、「すごく優しい人だ」とか「あの人を尊敬している」と思ったり言ったりはすることがあるが、逆の方向つまり否定的な断定はできるだけ避けたいと思っている。
もう少しここで言葉を足す必要を感じるので書くのだけれど、徳保さんがどうしようもなく魔道に墜ちている、救いようがないなどとは私は思いません。こうしてご自身に対する批判的な(私の)記事に対しても丁寧に応答してくださっているから。誰か他の人に対して「救いようがない」などと言う人は(どなたにどういうタイミングで言われたのか知りませんが)、おそらく人間の可塑性や議論・対話の価値を(そう言ってしまった時点で)相当低く見積もっているのだろうと思います。そのような姿勢は、自分自身が対話によって考えを深める可能性をもほとんど無くしてしまうことになるし、自分をも断罪してしまうことになる*1ので、残念ではあります。
どうか徳保さんも人間の可塑性や議論・対話の価値
を低く見積もりすぎないでください。そして「人格」に対する「断定」的な評価は、そのような固定された人間観とワンセットなんですよ。
前回さらっと書いておきましたが、
相手の人格を断定することはできないからこそ、「信頼」という概念が出てくるのではありませんか。