紳助に関する一連の記事についてKNPさん(nullさん)にお答えします

KNPさんから頂いたコメントにお答えします。以下のような質問でした。

1. 「単純な話」は1102の補足で、1101の紳助に好意的、非好意的の是非を言ったのがトラブルの素(少なくとも一端)になったと思われるのに「あくまで簡単な話として」と丸投げしてる点を指しました。
2. 「あくまでも紳助はXXを(略)」と「思ってる」んならそれで良いんですが、じゃあ書かなければいいじゃない!と言うのが正直な気持ちというか、それを表記する以上は何らかの補足、誘導などの意図を置いていることが明白で、ぶっちゃけ事前に防衛線張っても張らなくても変わらないんじゃないかと。少なくとも我々が公式に持っている情報は紳助の記者会見だけですし。
3. 「折れる」でも「理解する」でもどっちでも良いですが、この1104の補足大段落2で「普遍的な共通認識」を持ち出して大段落1では「山手線文化」と言ってみたり、大段落3で「折れるのはどうか」と言ったらやはり「山手線文化」は理解すべきだったり、と。そして「分かってくれる人だけ分かってくれれば」とセンスオブワンダー(これで「現実的に理解し合うにはこの手段しか〜」とは返されないですよね?)。

まず、コメント欄でのやりとりについてお話しします。

KNPさんの「別に私自身はこのBlogに於ける考えを理解しようとも理解しないようにとも思ってない」という部分に対して、私が共感を要求するものではありませんが、KNPさんが「理解しようとも」「思っていない」なら、丁寧に応答することはなかったかなとも思い、正直徒労を覚えますと書いたところ、KNPさんは理解「しよう」とも「しないようにも」思ってないと言うことで、対話の際必須となる自身に対する客観性を出来る限り保持しようとして書いたとおっしゃっています。


KNPさんの対話の際必須となる自身に対する客観性という表現から、最大限に意図を汲み取るとすれば、「先入観を持たない」ということだと思います。しかし、対話の際必須となるのは、むしろ、まず相手の考えを自分がその通りに認識する努力と、自分の考えを相手にその通りに認識してもらうための努力だと私は思っています。文章の意味内容の正確な認識に取り組もうという姿勢が読み手にない限り、私が何を書こうとそれは読み手にとってあまり意味がないことになります。
そして「理解しないようにとも思っていない」のはいわば当然なわけで、そこを私が一緒に抜粋しなかったからといって、抜粋の仕方として矛盾を無視して特定部分をサンプリングと非難されるいわれはないと思っています。すべてを毎回挙げる義務は元々誰も負っていませんし、単純に考えても文章の分量が毎回膨大になるので、結果として読み手を煙に巻くことにもなりかねません。


理解という言葉を、KNPさんは無自覚に「無条件で同調すること、折れること」という狭い意味でのみ受け取っているように思えます。私はここでは理解と「共感」とを明示的に区別して返答したのですが、KNPさんには伝わらなかったようです。それに対して「理解しようとも理解しないようにとも思ってない」と繰り返すのなら、それはただの無関心な傍観者であって、レスポンスする理由すら私にはなくなります。共感を要求するものではありませんが、KNPさんが「理解しようとも」「思っていない」なら、丁寧に応答することはなかったかなとも思い、正直徒労を覚えますというのはそういう意味で書きました。

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1. 「単純な話」は1102の補足で、1101の紳助に好意的、非好意的の是非を言ったのがトラブルの素(少なくとも一端)になったと思われるのに「あくまで簡単な話として」と丸投げしてる点を指しました。


私は「紳助に」好意的、非好意的という書き方は最初からしていないし、その是非も言っていません。そしてその点についても既に補足しています。2日の記事でもちろん、kowagariさんが、実際の生身の存在としての紳助や女性に対して批判しているわけではないというのはわかっています。あくまでどのような「構図」としてみているかということです。段落わけの便宜上「(簡単にいって)紳助に同情的な立場」と小見出しをつけてみたんですが、それがまずかったかなあ。そして、紳助が暴行を行なうまでの段階の、紳助の側から見た話としては、私もそんなに違う考えは持っていません。と補足しました。
また行為に対する評価を主体に対する評価にそのままスライドさせるのがよくないというか。「簡単にいって」紳助の「やり方」に対して批判的、「簡単にいって」「紳助」に対して同情的、という前回の記事の小見出しもそういう意識で書きました。とも補足しました。
それからこれは改めて念を押しますが、私が是非を言っているのは、女性に対して「どうしようもなく無礼な人間」とあいまいに抽象化することと、一般論としての生きにくさに対する対処の仕方です。上に紳助が暴行を行なうまでの段階の、紳助の側から見た話としては、私もそんなに違う考えは持っていませんと自分の文を引用したとおりです。


なぜここは別に大事なところでもないし強調するべきでもないと思うので、さらっと終わらせたいのですがと書いたかというと、あまりここを強調すると、kowagariさんを糾弾するような形になってしまいかねないからです。
ここではkowagariさんには申し訳ありませんが、KNPさんが何度も説明を求められるので、なぜ「構図」として紳助に同情的、と私が見たことは間違っていないと思うか説明します。

kowagariさんはこう書いていました。

どうしようもなく無礼な人間というものにどうやって対処したらいいかということが問題で、紳助さんの場合は封建的な日本的な説教文化を背景にガツーンとかましてみたら、相手が帰国子女でアメリカナイズされてて権利の主張とかがすごい人で、それが全然通用しなくて頭に血が昇って暴行しちゃったということなのかなと想像した。印象としてはこういう無礼人は確実に増えてる気がする。

要約すると「どうしようもなく無礼な人間というものにどうやって対処したらいいか」「紳介さんの場合は〜を背景にガツーンとかましてみた、と想像する」「印象としてはこういう無礼人は確実に増えてる気がする」ということですよね。つまり、どうしようもなく無礼な人間というものに紳助はこう対処した、という構図として見た(想像した)。これはなんらかの暴力を振るったといわれている人間に対しては同情的な見方だと思います。人間に対して同情的な見方自体は何も悪いとは思いません。
しかし「どうしようもなく無礼な人間というもの」というものの言い方であえて誰かにレッテルを貼るなら、それは暴力を行なったと想像される人に対して貼るべきだろう、と私は思ったのでその趣旨で書きました。


また、丸投げというのは、自分の請け負った仕事を丸ごと下請けに回すことが意味の中核だと私は理解しています。KNPさんが丸投げとして指摘しているのは、どうやら、他者に責任を押しつけて自分は責任放棄という意味で用いているようですが、私は自分がそうしているとは思いません。2日の記事で上のように、自ら責任を持って説明しています。

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2. 「あくまでも紳助はXXを(略)」と「思ってる」んならそれで良いんですが、じゃあ書かなければいいじゃない!と言うのが正直な気持ちというか、それを表記する以上は何らかの補足、誘導などの意図を置いていることが明白で、ぶっちゃけ事前に防衛線張っても張らなくても変わらないんじゃないかと。少なくとも我々が公式に持っている情報は紳助の記者会見だけですし。

私が書いた理由は、4日の記事の「4」に書いたとおりです。

事件の全容はわからないというのが前提ですが、そのやりとりについて刑事告訴した女性を非難するような話をあちこちで目耳にしたので「女性を一方的に非難するのはおかしい」という意識で書きました。

一般的な構図として抽象化した話について言うならば、このケースについて女性を無礼な人間と見て「無礼な人に対してはどうしようもない」とつなげることに違和感があったので「無礼な人に対しても、もう少し話し合いの余地があるんじゃないか」という意識で書きました。

それから4日の記事の「1」で書いた、でも上にあげた私の例えの場合、二人の話からして少なくとも(まあ、スカートめくったのは事実なんだろうな)と周りは一応感じるだろうし、スカートめくっちゃいけないよな、と漠然と思う、それでいいと思うのです。めくられた女性はむかつく奴だから仕方なかったとか、女性にも落ち度があったんじゃないかとか、そう声高に言う(あるいは曖昧に匂わせる)のはちょっとどうかと思うのです。も理由です。

KNPさんのおっしゃる、私の何らかの補足、誘導の意図としては上のようなことです。ただし不当な誘導とならないように、考えるべき材料として、一定の信頼性のある事実を提示するにとどめています。(この点についてわかりづらいでしょうからもう一度書きますが、診断書や紳助・女性の話などを総合して考えるに、「紳助から女性に対して、何らかの暴力と思える行為がなされたという点については否定できない」という判断が妥当だと思います。妥当というのは、客観的に絶対正しい最低限のラインという意味ではありません。私たちの主観としてはその最小限の判断で満足するほかないということです。)

また、防衛線という言葉は使ったことがありません。予防線という言葉は他の記事で使いましたが、それは攻撃に対して防御するということではなく、予めいらぬ誤解を防ぐという意味です。主張の前提として認識している事実関係には限界があるということや、その限界がある事実関係からの射程距離について自分は予め承知しているから、不必要な反論や質問はされないですませたい、ということです。どうもKNPさんは攻撃とか喧嘩という構図で話されるので、その構図から外してお答えするのが難しくなります。

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3. 「折れる」でも「理解する」でもどっちでも良いですが、この1104の補足大段落2で「普遍的な共通認識」を持ち出して大段落1では「山手線文化」と言ってみたり、大段落3で「折れるのはどうか」と言ったらやはり「山手線文化」は理解すべきだったり、と。そして「分かってくれる人だけ分かってくれれば」とセンスオブワンダー(これで「現実的に理解し合うにはこの手段しか〜」とは返されないですよね?)

上の質問は何度も考えましたが全体として意味がわかりませんし、論理矛盾とは何のことを言っているのかいまだにわからないんですよ。わかる範囲でお答えします。


まず、「普遍的な共通認識」という言葉は持ち出していませんし、そもそも私はそのような考え方はしていません。


また、「分かってくれる人だけ分かってくれれば」とは書いていません(ニュアンスが変わってしまうので、引用なら表現を変えずにお願いします)。
以下のように書きました。ただその際、ただの感情よりもロジックによって展開する方がベターだと思っています。もちろんロジックの展開には慎重でなければなりません。レトリックで読者をミスリードするようなことは避けたいので、一応断り書きをつけているつもりです。それにしてもくどいほど断り書きをつけるのは煩わしいし、あまり厳密すぎる堅苦しい文は書く方も読む方も嫌になってくるので(みなさん読んでいて今嫌になってきてませんか?)、最終的にはわかる人だけわかってくれればいいやという気もします。これは論理的に矛盾しているでしょうか。あるいはセンス・オブ・ワンダーと何か言われるようなことでしょうか(センス・オブ・ワンダーという言葉を誤用している気がしますが)。

私の意見について完璧に正確な認識を強要することはできないし、したくもありません。私の表現能力の限界もあります。KNPさんの読解能力の限界もあります。お互いの意欲の限界もあります。それでも私としては今までだいぶ辛抱強く質問につきあっているつもりです。


大段落3で「折れるのはどうか」と言ったらやはり「山手線文化」は理解すべきだったり、とについて。

率直にいってどこが批判されているかわからないのですが、〈ある一人の人と対話する際には、その相手の考え方や主張をまず正確に認識しようと心がけなければいけない〉という私の考えは、他の部分と何か矛盾していますか?迎合や敵対以前の、コミュニケーションにおける基本ですよね。

ここで、文化・思想的に似通った個別の考え方をグルーピングして、ヤンキー文化、山の手文化と名前を付けることの是非は別の話です。便宜上一般的な呼び名を列挙して理解しやすくしただけです。文化・思想的背景が異なる人、という文脈で書いているので、程度問題ではありますが、文化・思想的に似通った集団というのは存在すると言って間違いではないでしょう。
それから、「山手線文化」とはどういうものかわかりませんが、そういう言葉は書いていません。「山の手」とは「下町」に対比される、いわば上流・知識階級の地域のことです。英語でいう uptown です。


「現実的に理解し合うにはこの手段しか〜」とは返されないという部分も、私は「現実的に理解し合うにはこの手段しか〜」と書いていないし、返されないというのが誰が主体となって誰に何を返すのか、あるいは返さないのか。KNPさんのおっしゃる意味がわからないんです。ちなみに理解という言葉の意味について食い違いがあるらしいということは既に書きました。関連しそうなことについてはおまけ以下で補足します。

おまけ

紳助に人格を付与したのと同様そりゃ勝手に想像してくれりゃあいいですけど他者のをもってして持論が補完できるわけでもなし、と。

いったん前半と後半を切り離します。前半、後半、どちらも私の考えはKNPさんと異なります。


紳助に人格を付与したのと同様そりゃ勝手に想像してくれりゃあいいという部分について。

社会生活を営んでいる中で、見聞きした情報について何らかの判断を(無意識にであっても)行なうことは誰も避けられないという部分を、KNPさんはお読みになったものという前提で話を進めます。
誰が想像しようとしまいと、紳助にも女性にも、私やあなたと同じように、一人の人間としての人格があります。〈人の人間性や人格を否定的に詮索するようなことについては慎重でありたい〉という問題意識は、これまでのコメントを読んで、KNPさんとも共通していると思っています。私は人格を勝手に付与してはいませんし、勝手に想像したり、ましてそれを表明して決めつけたりもしていません。

誤解されている部分については、紳助の一連の行動の内心の経緯や女性の人間性について、kowagariさんや山田さんが推測をしてらっしゃるので、それとは別の方向の推測成り立つと示しただけです。繰り返しますが、わかった範囲での行動の内心の動きについての話が出たので(まともな思考力とか)、行動の内心の動きという同じ局面について、異なる推測が十分成り立ちうるということを示したと既に書いたとおりです。


他者のを持ってして持論が補完できるわけでもないという部分について。私はそうは思いません。
極端な例で書きます。天動説を唱える人に対して「いや、地球だって動いているよ」と言った場合、地動説を一から自分で説明しなければいけませんか?天動説(地球は動いていないとする理論)は科学的にもかなり精緻な理論ですよ。私には地動説を一から組み上げ、科学的に証明するような能力も意欲もありません。自分の主張と共に他の方の主張を具体的に示して「既にこういう議論がなされているからまず読んでくれ」と補完するのは、十分可能だし許されると思います。

おまけリローデッド

ついでに、おそらく私の記事への違和感みたいなものの一つのよい例だと思うので[日記]恐がりさんのこのへんの話で思った話から引用させていただきます。

でまあ、取り上げた方のid:summercontrailさんの補足なんかも含めて読むと、summercontrailさんが言いたかったのは「暴力よりも話し合いで解決しようぜ」ってことがわかるんだけど、この結論に先立って紳助善悪論の文脈で恐がりさんのダイアリを引き合いに出してしまうとそれはちょっと狡猾だと思った。狡猾というとアレな感じだけど、まず自分の言いたいことがあってその結論を導くための材料として人の言説を引用するにあたって、無意識もしくは故意にミスリードしてるのではないか。流し読みする分には必要な単語が必要なタイミングで並んでいれば自説の材料としては十分なので、そういう引用の仕方もじつは結構あるんじゃないかと思う。ただ、summercontrailさんの補足を読むと実際はミスリードしてるわけではなくて、的を得た結論だと思うので、これはこれで自分の中で解決とする。

これは時間的に少し戻ると、まずkowagariさんの〈無礼人を殺すファンタジーで溜飲を下げよう論〉というような考えがあって、その結論を導くための材料としてkowagariさんが紳助の事件を引き合いに出してしまったのが、無意識もしくは故意のミスリードだとも言えますよね(狡猾と言うとアレな感じですが)。私はそれに対して違う考えを提示したという面があるといえます。こう書けば伝わるかな。(話し合いが失敗しても暴力ではなく法や手続きでとか、そもそもファンタジーで溜飲を下げる発想の前に、といった一般論はこれとはまた別の話です。)

そして私はkowagariさんの記事を取りあげる前に流し読みでなく何度も読んだので、そういう引用の仕方とはむしろ、今回の事件をkowagariさんが引用した仕方にあてはまるし、それ自体はsui-aobaさんと同じく、私も一般的には「あり」だと思います。では今回の場合、どこが「なし」だと思ったか。


紳助は芸能人、しかも話芸を披露する芸能人です。である以上、自分のキャラクター=外面的な人格について、公の批判に身をさらすことに一定の覚悟をしているわけです(もちろん限度はありますが)。だからどちらかといえば紳助についての方が、やや内面に踏み込んで〈一般的にいって、経緯からするとそのような意図とも思えるような行動だ〉と書くことも許されるでしょう。でなければナンシー関の文章などは全く許されないことになります。

これに対して、今回の女性は芸能人ではありません。個人的にまったく知らない人から「どうしようもなく無礼な人間」ととくに根拠も挙げずに断定的に言及され、「どうしようもなく無礼な人間はどうしようもないな、ファンタジーで溜飲を下げるしかない、そういう無礼人をぶっ殺すゲームを作ったらおもしろい」というような一般論に曖昧に短絡し、それを全世界に向けて発表されるいわれはありません。しかも女性にとってみれば、自分が被害を受けた暴力沙汰をきっかけにしてそんなことを知らない人たちに言われるなんて、もう踏んだり蹴ったりなわけです。

これは、仮に、女性がどうしようもなく無礼な人間だったとしても、私たちがああだこうだ口に出して公に言うことではないということです。仮に訴えたのが彼女のもろさや攻撃性の現れだったとしても、訴えるという手段自体は一般に、暴力と違って非難されるようなことではないわけです(訴えても自分に理がなければ負けるわけですし)。なのに訴えるその精神性にまで否定的に言及するのは、余計に彼女を傷つけ、ますます態度を硬化させてしまいます。(kowagariさん自身は訴えたこと自体についてとくに言及していませんが、訴えたことを非難する文章もいくつか見ました)


それがまだ、「ああいう奴らは話してもわかんねえんだよ、空想の中でぶっ殺したい」といろんな困った人といっしょくたに一般論にして、居酒屋でくだをまくサラリーマンの愚痴とかネタでとどまるのなら、私がインターネットで自分との考えの違いを書く必要はありません。あるいは私も一緒になって面白がるかもしれません。

ただ、それが公に表明されると、生身の人間を大きく傷つけます。しかもkowagariさんは「はてな100傑」に入るほど、大勢の人が閲覧しているわけです。そういう場で、芸能人でも政治家でも経済界の重要人物でもない人をダシにして「どうしようもなく無礼な人間」という形に一般化して語ることには、慎重であってほしいと思ったのがきっかけです。慎重であってほしいというのは、止めろということではなく、あくまで慎重であってほしいという個人的な感想です(くどいですが)。傷つけても書くだけの意味があるという覚悟の下に書いているWebサイトはいくつも知っていますし、それはそれで立派な在り方だと思っています。

(ここで大事っぽいことを書きますが、〈(1)事実関係の把握の仕方(2)一般論としての考え(3)「当該」事実関係を「当該」一般論に展開することの是非〉という分け方は有効かなと思います。そして、慎重であってほしいと今書いたのは、(3)の部分です。(2)は比較的自由に議論できる部分だと思います。)


……しかしまあ、何かの話が大っぴらになったら、それが元々メディアに露出するつもりのない人であっても、自分の知らないところで大勢に大っぴらに罵倒されたり、逆にものすごく持ち上げられたり、あるいはその話をダシにしてあれこれ言われるのは現代では避けられないことなのかもしれませんね。地震で助かった子どもにしても、美談として祭り上げられたりとか、逆にマスコミの横暴の例としてマスコミ非難のキャンペーンの材料にされたりとか。

自分はまったく埒外の客観的な第三者ではなく、ネットで誰かに言及した時点で、既にその相手と関係性を持った一人の人間であり、その構図から逃れることはできない。だから野次馬は野次馬なりに節度を保ちたい、とりわけ野次馬が強大な力を持っている今日では余計に心がけたいと思います。


本当に賢い人は、私と違って、そういう事態にも黙って憂うだけで終わらせているのかもしれませんね。

おまけレボリューション

今回の一連の議論について、知らない方からメールで丁寧な感想を頂きました、ありがとうございました。
「ムカついた時」の気分転換法、参考になりました。全部同時にやってみるのもおもしろそうですね。私もアクロバティックなのを最近色々知ったので、ラベンダーのアロマポットを温めつつ、同時に寂聴先生のありがたいお話を流しながら思いつく限りにエンジョイしてみたいと思います(うそ)。ちなみに色々知ったのとアロマポットは本当です。