天のマルチタスク機能について、とりとめもなく

信仰めいた話になるけど、私は「天は自ら助くる者を助く」とは思わない - finalventの日記

少し補足したほうがいいかもしれない、啓示ということ - finalventの日記

 私も、そんな風に思います。

 で、そう書くだけなら別にブログで書かなくてもいいのだけど(書いてもいいのだけど)、何を言いたいかというと、たとえば三年寝太郎のこと。

 最近ではあまりもうこの昔話というか説話みたいなものは知られていないのかもしれない、いわゆる「ニート」との関係の文脈でも私が見聞きした範囲では見かけたことがないので。

 三年寝太郎 - Wikipediaに載っている話は私が知っている話とは違うので、筋にはいろんなパターンがあるんだろうな。

 努力をするかどうかで人の価値とか、人格の尊厳なんかが決まるなら、三年寝太郎は寝ているときはだめなやつで、起きて大きな働きをしてからはそれゆえに偉人ということになる。

 でも、そういうことではなくて。努力というのはそれ自体も結果というか。意識としての自分があるべき姿として思い描いているような行動・態度をとることができていないことによって生じる、引き裂かれたような内的な苦しみは、外面的に意志的な行動をしているかどうかには実はあまりかかわらない。そして、そういう内的な苦しみを引受けていくことはどちらかというとかなり不幸。自分もしたくないし他人にも勧めたくない。(ただ、必然的なその種の不幸というのはあって、それはいいとか悪いとかいうことではないし社会を支え導く偉大さであることもある。)

 潜在意識というか無意識的な領域の自分と、表層的な思考の連続体としての自分をうまく調停していくことがたいせつ。昔のキリシタン用語でいうと、「御大切」。その意味で、以下の指摘は大事。


 あと、無意識というか身体的な臨界では、ゆったりとした愉悦みたいなものの時空があるといいと思う。身体を解放するような感じとか、美味しいたべものとか、やさしいふれあいとか。

 癒し系グッズとか癒され感というものを、つらい日常という長距離走での断続的なドリンクの補給みたいなものとして考えるのではなく、日常が自分にとってつらいというのはどういうことなのか……基礎的な、たとえばフィジカルな面で自分に思いやるとか。知らないうちに特定の部位の筋肉がこわばっていれば、それはそういうこわばらせるような信号を神経に出しているということ。その信号をやめてもいいと深い部分で納得すること。こういうのはまさに努力で解決できない部分で、気を抜くというか。耳を動かすような芸当に近い。ユーモアへの感覚もたぶん必須。

 そしてそうした調停と配慮ができていてもできなくても(たぶんそうしたこととは無関係に)、あるとき瞬間的に、単純に完全に了解することがある。自分の置かれた時空間内の座標を超越した、しかもそれでいてまさにこの私を見つめる視点の存在に。あるいは、あまりに唐突で完全な了解なので、それは自分に帰することができない。因果の流れとは独立して、まったくの恩恵のように与えられたものとしかとらえることができない。それを啓示とか邂逅と仮に呼ぶ。それは、システム内部のパーツではない、自分という存在と、自分とは異なる絶対的な他者の存在を認識させる。

 無理のないよい努力というのは、そうした感覚からくる「世俗内禁欲」だというようにとらえている。禁欲といっても他のことを我慢するとかそういうことではなく、まさにこのことしか興味がない、猫まっしぐらという在り方。(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 - Wikipediaにある説明は私の理解と違っていて、私は『社会科学における人間』にある説明に納得している)

 「天は自ら助くる者を助く」というのは、あえて善解すれば、こういうことではないかと思う。つまり、「天に助けてもらうために自ら努力しなくては」と必死に「頑張る」のではなく、天が助けてくれるということが深く腑に落ち、天にすべてを委ねることができたとき、自分はまったく自由になすべきことを行うことができる。そういう状態にある人は、天に誉れを帰する、それを見聞きした他人の謂いではないかと思う。

 ……この手の話題は止まらないのでこのへんで。

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