『スラン』


 最近久々に読んだ。


スラン (ハヤカワ文庫 SF 234)

スラン (ハヤカワ文庫 SF 234)


 古本屋でたまたま発見し懐かしさを覚えた。20年以上前に読んだのだが、印象に残っている。
 懐かしさだけでなく、軽い後悔のようなものも感じながら書棚を見つめていた。あ、これも極東ブログ: 人間の脳は進化の途上にコメントさせていただいた内容に関連するのに、なんでこれを挙げ忘れたんだろう。

 コメントさせていただいた内容というのは以下の通り。自分の書いた内容なのでためらいもなく全文引用する。


 スタージョンの『人間以上』がすぐに思い浮かびましたが、あれはかなりグロテスクですね。外見的にというのではなく。
 アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』的な急激な入れ替わりがあると考える立場もありそうですが、完全に宗教思想の類になるだろうし、どうもそういう発想は好みません。ほぼ断絶しているような、畏怖すべき未知の高次の思考が、みたいなのは。

>人類は今後も数万年単位での生存が可能だとすればどのような脳を獲得するのだろうか。その高次な能力とは、あれかなとかつらつら思うことはある。

 あれですかね、共感能力。むか〜しは人間でも別の民族や奴隷などはある意味別の種とみなされていたというか、「同じ人間」という発想がなかったというし。
 もちろん変に「人の気持ちを思いやれ!」というものではありませんが。ガイア的な感覚は検知されやすく、したがって言及されやすくなるでしょうけど、けしてそうはならない。
 あるいはその亜流として、一種のテレパシー的なものが別の方向に発達して、アシモフファウンデーションと地球』のバンダー的な。

 まあそもそも数万年レベルで生存できるかわからないし、私のは元の文献も読まずにただの思考実験ということでSFホゲでした。
 しかし実際「現存人類の知能が過渡的な状況にあるというのは、マジで考えつめていくとけっこう変な感じはする」ええ、変な感じはします。

名前: 左近 | 2005年9月11日 午後 12時18分

 コメント先の極東ブログの当該記事に目を通されないとあまり意味が分からないかと思う。まあ空想の愉しみということもあり、少なくとも私のコメントに関してはあまり真剣な話ではない。


 何せたしか20年以上前に読んだっきりなので漠然とした記憶しかないが、引用したコメント中に挙げたどの作品よりも、『スラン』的な在り方のほうが望ましいという印象はあった。懐かしさからだけではなく、極東ブログへのコメントの連想からだけでもなく、今再読する価値があると思ったので購入した。


 Amazonのカスタマーレビューでは、「ベスト500レビュアー」に認定されているkusyanaさんがこの本を20回以上読み返したといい、激賞されていた。一部引用する。


息もつかせぬストーリー、感動的なラスト、これはヴォークト氏の最高傑作です。

 ヴァン・ヴォクト(ヴォークト)の他の作品もたしか全集で読んだが、もう忘れてしまった。ので、最高傑作と呼ぶにはためらいがあるが、たしかに『スラン』はまぎれもなく優れた作品だと思う。


西城秀樹のおかげです (ハヤカワ文庫 JA)

西城秀樹のおかげです (ハヤカワ文庫 JA)



 SFにも『西城秀樹のおかげです』から『10月1日では遅すぎる』まで色々あるが、……SF小説をアイディア型とストーリー型に分ければ、『スラン』は骨太で壮大な物語でぐいぐいと読ませるストーリー型といえるかもしれない。あんまり最近SFを読んでいないが、古き良き時代のSFとはこういうものだったなあと再読する前から思い返していた。


 ここまで書いてまだ『スラン』の内容をほとんど紹介していない。考えてみるとこれまでのレビューでもあらすじの紹介などはほとんどしたことがないが、あらすじの説明などはネットを少し漁れば大量に出てくるだろうし、私がなぞって要約してみせる意味をあまり感じない。読者には不親切だしよくない癖だが、今回は上記の引用コメントとどう関連するのかという点について少し触れる。


 私たちは、なんとなく人類が既に進化の最終段階にいるとの考えを抱きがちだが、そうときまっているわけでもない*1。そこで人類の次の段階の存在について描いてみせたのが『人間以上』であり、『幼年期の終わり』であり、ファウンデーションシリーズの(時代設定のうち後半期を扱った)一部だが、『スラン』もそのジャンルに加えてよいだろう。


 『人間以上』や『幼年期の終わり』が、〈旧人類を動物か類人猿のように見下す、まったく異質の精神構造を有する存在〉として新人類を描くのに対して、『スラン』はそうではない。ということがそのままストーリーに絡んでくるし、結末の種明かしをしてしまいたくないのであまり書かないが、ここをただの素朴な物語にしないところがヴァン・ヴォクトの優れたところだと思う。


 とてつもなく先をも見すえて、いかに被害を減らすか・いかに事態を改善するかという視点から考え抜いた結果、非情にも見える手法をとりつつ現状に働きかける上でベターな手法をとり続けるという、作品中のある人物の姿勢は、その是非を超えて心に残る。と書いてみて、これは隆慶一郎の一連の作品中にもよく見られる姿勢でもあるし、書く予定がまだ書けていない心情倫理という概念の対概念である責任倫理の説明にもなることに気づいたが、それは一応別の話。


 日本での文庫での出版が1977年、執筆は1940年。古い。はるの魂 丸目はるのSF論評 - スラン SLANは、萩尾望都竹宮恵子の作品群への影響を挙げていた。

 今回『スラン』を読み返していて、途中やや流し読みになった。話が長く濃密なので、登場した技術の説明などには注意をあまり払わずに読み進めたくなってしまう。時代の違いからくる技術観の違いのせいで理解しづらいのかもしれないし、ひょっとしたら和訳の具合によるのかもしれない。が、そのように興味の持てないところを流し読みしても、ずっしりとした読後感が味わえることは保証します。

*1:進化論については同じ極東ブログ極東ブログ: 日本人と進化論にやはりコメントさせていただいたが、話が広がりすぎるのでここでは触れない。扱うとすればたぶんモヒカン族の方で書く