先日の記事の補足と頂いたコメントの再掲

 [Web][ひとりごと]鋭い感性をアピールして心に訴えかけようとする鈍感さ、たとえば私のという記事にいただいていたコメントがたいへん示唆に富んでいて、コメント欄に埋もれさせて行くにはもったいないと思えたので、コメントをくださったドロ氏ー(id:unmonoko)とAmehareさんお二人の許可を得て再掲します。

 なお、前回の[Web][ひとりごと]鋭い感性をアピールして心に訴えかけようとする鈍感さ、たとえば私のという記事中で


きっと吉野弘の「夕焼け」という詩についてamehareさんが感じる感覚というのもそんな感じなのだろう(違うかもしれないしいきなりamehareさんのお名前を持ち出すのは申し訳ないけど)。
 と書いていたのは、[Web][レビュー] 「夕焼け」再読をきっかけとして書いてくださったAmehare MEMO:何故僕は吉野弘「夕焼け」にプロパガンダの技法を感じるに至ったかを逆に辿るや、その前の記事Amehare MEMO:吉野弘の詩「夕焼け」を誤読するのことです。またさらにさかのぼると、[Web][レビュー][雑記] 吉野弘「夕焼け」のコメント欄でもお話させていただきました。
 前回の記事中ではこうした経緯が読み手にはわかりづらく、その点でとりわけドロ氏ーにはご迷惑をかけたように思います。
 その他、下に掲載するコメントについても、リンクや当時の私のコメントの意図など補いたい点は多々あるのですが、時間的余裕がないので(今日もこの調子だと寝るのが午前3時すぎ……お化けが出るよ!!)、残念ながらそのまま掲載することにしました。再掲にあたり、読みやすくするためコメントごとに改行を一行増やしました。


 コメント欄は現状ではページ上部の検索欄から検索できないので、そのような状態で埋もれさせるのは勿体ないと思うようなコメントをいただくことはしばしばあるのですが、再掲は初めてかもしれません。今回と比べて以前いただいた他のコメントが何か劣っているというわけではなく、また毎回このようにできるわけではありませんが、今回はたいへん示唆に富んだ内容を含むコメントだと思い、お願いし許可を得たのでここに掲載しておきます。
 わざわざ再掲の許可のお願いをしておきながら実際に掲載するのが大幅に遅れてしまい申し訳ありません。

 以下、unmonokoというのがドロ氏ーのアカウント名、ameharememoというのがAmehareさんのことです。


# unmonoko 『ひ、ひええええー私ごときの書いたものになんかいろいろ考えてくださってありがとうございますというか申し訳ありませんというか、ホント実はあんまりモノ考えずに思ったまま書いているだけなんで、なんかやっぱり申し訳ないような気がするのですが、「日常を愛する」というのは、私がものを考えたり感じたりすることにおける最大のテーマで、自分の感性をアピールするのは芸術家であれば当然のことなのですが、それを持たない人間を軽蔑するということに対して鼻持ちならないものを感じているのです。太宰先生は「芸術は所詮市民への奉仕である」と残して、「微笑もて正義をなせ」という聖書の言葉を大きなテーマにされていて、私は、それを思わない芸術家は芸術家ではないと思っているだけのことで、芸術とは意思表示でもあるのだから、プロパガンダなどは上等だと思っているのです。そうだそれから、私は人間同士の意思の疎通は50%でもできたら良いほうだと思っていて、実は自分の言葉など他人に通じてはいないのだと考えていて、それが「この世の正義は相対的であり、絶対的正義は法の及ぶ範囲にしか存在しない」という考えにも繋がっているわけでございますなのデス。
そしてそれから、ドロ氏ーの件おぼえていてくださってありがとうございますね♪』


# unmonoko 『これはモノのついでですが、ドロCは、法は自由を保障するためにあるものだと思っています♪』


# summercontrail 『ドロ氏ーこんばんは!いやあ本当にありがとうございます。前よりも太宰治が好きになりました。トカトントンと闘いながら、微笑みて正義を(ドロ氏ーが紹介してくださったこの言葉も今回念頭にありました)、うまく書けませんが何かふに落ちましたッス。
 およそ意思疎通というものの困難さというのは以前から私の根底にあって、だからこそあきらめながらも頑張ってみたり駄目だったりするのですが、今回のように新しく目が開けたりすると嬉しさひとしおです。絶対的正義は法の範囲というのも以前から思っていたのですが、絶対的正義を説いているととられがちなケースについての構造も今いただいたコメントでさらに脳内エウレカケミストリーであります。自分を責めてるとかでなくむしろ楽になったのですが、思考のプロセスを書いてみました、お優しいフォローありがとです。あとさードロ氏ー今回の記事の首輪写真で前よりさらにきれいになってるじゃん。ダメだこりゃ! (?)』


# summercontrail 『ドロ氏ーこんばんは!いやあ本当にありがとうございます。前よりも太宰治が好きになりました。トカトントンと闘いながら、微笑みて正義を(ドロ氏ーが紹介してくださったこの言葉も今回念頭にありました)、うまく書けませんが何かふに落ちましたッス。
 およそ意思疎通というものの困難さというのは以前から私の根底にあって、だからこそあきらめながらも頑張ってみたり駄目だったりするのですが、今回のように新しく目が開けたりすると嬉しさひとしおです。絶対的正義は法の範囲というのも以前から思っていたのですが、絶対的正義を説いているととられがちなケースについての構造も今いただいたコメントでさらに脳内エウレカケミストリーであります。自分を責めてるとかでなくむしろ楽になったのですが、思考のプロセスを書いてみました、お優しいフォローありがとです。あとさードロ氏ー今回の記事の首輪写真で前よりさらにきれいになってるじゃん。ダメだこりゃ! (?)』


# summercontrail 『携帯から湯船からの投稿で、入れ違いかつ重複コメントになってしまいましたが、「法は自由を保障するため」そうですよね。そのあたりもう少し理解があればうまく機能するのにと思いますが、よくも悪くもこういう社会に生きているわけで、それこそ微笑みて正義を淡々と心がけていきたいなと思います。手本は私の周りにもたくさんいらっしゃるし。』


# ameharememo 『左近さん、ドロ氏ーさん、こんばんは
お二人のコメントでの会話を楽しんで読んでしまいました。左近さんのところからドロ氏ーさんのブログも読んでいます。
左近さんの記事、すごく恐縮しております。ありがとうございます。
そのポスター知らないのですが・・・でもドロ氏ーさんの言われることよくわかります。
僕も、ドロ氏ーさんの言われるように、伝わるのは話半分くらいかもと思っていたりしています。その上で、左近さんが言葉を尽くして説明しようとする気持ちもわかります。僕も自分をそうだと思いますし。それを言い訳とも思わないです。それは左近さんが言われたいことが、一言ですむのでなく、何重にも言葉を重ねる事でより近づけることが出来ると、感じているのでないかと思っています。言葉を重ねる事で、心の襞のようなものも含めて伝えたい、それは自分に対する誠意だと思いますし、それがなければ他人に対してもそう云う気持ちはもてないとも思っています。少し話が違ってしまいすみません。
そうでした僕のブログでも、最近の検索ワードとして一番多いのが「夏の思い出」です。勿論記事の内容は江間章子さんの事ですけど、最初は、あの歌人気あるんだなぁ程度しか思っていなかったのですが、左近さんの記事を見て、もしかして違う意味の(つまり一夏の経験の意味で)「夏の思い出」でのヒットなのかもしれないなどと、思ったりしました。でもそれだと、僕の記事はつまらないでしょうね(笑)』


# summercontrail 『amehareさんこんばんは。少し補足すると、受け手が共感して身を切るようなつらさを感じるような表現は、受け手の気持ちを考えるとできない場合もあるのが本当だと思うんですよ。ただ他人のことに身を切るようなつらさを感じて悲しむことは一概に悪い経験とは言えないとも思っていて、それは今後考えていく課題です。
 上の別の記事で引用した極東ブログの記事の視点からいえば、(今回に限らず)私のように毎回言葉を重ね続けるよりもユーモアを持って…とは思うのですが、そんな風に人をあしらえるほど老成した器でもないので、今ぐらいの懸命さが等身大の私の力量なんだろうなと。えへへ。
 はるかな尾瀬…のあれでしたっけ。また真面目な話にしちゃいますが、夏ってお盆というだけでなく、逆説的に死の匂いを強く感じさせる季節だと思うんですよ。そこから逃げたいという思いから殺那的な生=エロスの経験へと駆り立てられる人は多いのかも。でもそういうきっかけでamehareさんの記事に出会い、継続して読み始めるかたもいるかもですね。』


# unmonoko 『左近さんこんばんは〜ameharememoさんはじめまして!ドロCのブログもご覧くださっているとのこと、恐縮デス。意思疎通についてですが、勿論!ドロCは、言葉を尽くして相手に説明することは大切だと、むしろせにゃならんと思っているデス。この努力を放棄したら人は人でなくなるとも思っています。ただ、伝わらないということのほうが当然であるということが大前提で、そのうえの努力でないと、それは他者を断罪する行為になってしまうことが往々にして起こりうるというのがドロCの考えなのデス。つまりは「話せばわかる」と思っているうちは他人を理解することもできやしねえだろうと考えている次第、「話してわかるところだけわかってもらって落としどころをみつける」くらいに考えておかないと他人がみんなバカに見えてきてもそれは当然の成り行きかと。』


# unmonoko 『首輪写真で寝そべっているのはタルミを下へ流すためでございます。携帯カメラ万歳。』


# unmonoko 『いやーん、補足〜〜
んでもって、金子みすずの問題点は、「伝わらない」「感性をともにしない」人間に対する「断罪」を感じるというところで、その程度の単純なお話なので申し訳ないのです〜』


# summercontrail 『ドロ氏ーごめんちゃい、お返事遅くなりました。昨日は2時ごろまで作業をしていて、明日(というかつまり今日)お返事書こうと思っていたのですが、早朝出るときにねぼけて携帯を家に忘れてしまい、レスをできずに今になりました。忙しくてもやっぱきちんと寝ないとダメですね。orz!!!(と、元気よく orz)
 こじれるときの構造についてだとか私のスタンスなどについては今ここで私が言明しない方がいいのかなと思いますが、お話聞かせていただいていて、私はドロ氏ーとほぼ同じ感覚なんだろうなと思いました。(長く書くとレスをいつまでも強いてしまいそうなのでちょっと躊躇しますが、関連して http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/06/post_781c.htmlこの記事も興味深かったッス。)
 「ドロ氏ーが金子みすずのすべてを忌み嫌っている」みたいな誤解は私はしてませんし、他のかたもとくにそんな風には受け取らないと思うのでモウマンタイです、補足ありがとです。それから「写りがいいのは携帯カメラのせいだ」とかいう誤解もしてませんよ!!謙遜ヤメレ!!!
 あ、あとソクラテスのことを思い出したのは「悪法も法なり」には重点はなくて、あれも「周りがどうでも自分は自分のなすべきことをなす」って姿勢の一種かなとなんとなく連想したんですよ。現時点で既にこの点ドロ氏ーにお伝えできてるとは思うのですが、元の記事が走り書きで我ながらわかりづらいので、半ば未来の自分用の補足として書いておきますだ、よ…(今なんか黒砂糖と緑茶でピースフルな気分です)』


# unmonoko 『こんばんは〜☆左近さんいろいろとフォローありがとうございます♪極東ブログさんのお話はドロCには難しくてあまりよくわかんなかったのですが、あんまりオトナのフリして「放棄」するのもどうかと思ったり。「断罪」さえしなければトコトンやればいいんじゃないかと思ったりもするのです。違う話だったらごめんなさい〜〜
法律については、日本人は法律を「道具」として扱うセンスに欠けていると思っています。あまりにセンチメンタルで、それが却って自由の保障どころか、自由を阻害するということが多々起こっていると。「悪法も法なり」というのは、法を法として、道具として扱わなければ秩序が乱れる、それを危惧した言葉であるとドロCは考えております。自分のなすべきことと、法は勿論別次元のお話かと思いますので、それは両立できるしさせなければならないと思うのですが。
謙遜だったらイイノニナーそうじゃないからファンタ飲もう・・酒よりもファンタが似合うとそういえばもっぱらの評判。』


# summercontrail 『ハロードロ氏ー携帯からこんばんみ。今回いただいた法などについてのコメント、まさにそのように思っていました。あまりにセンチメンタルそうなんですよねとヘッドバンギング。私の頭の中でリンクしている事柄の文字通りリンク集(笑)を作ってみたいと思いましたが、今日もこんな時間までオフラインでむやみに忙しくてなかなか、ていうかお返事遅れがちですみません。
 ドロ氏ーの新しい記事、問題の切り分け方がさらにウロコ座布団を山田君目から3枚持ってって!です。作品の鑑賞と人格同士の真摯な対話はたしかに一応別ですよね。自分の中での矛盾ぽい考えが矛盾でなく理解できたような。』


# unmonoko 『ブログ更新されているにもかかわらずちょっとひっぱっちゃいます〜☆座布団ありがとうございます〜☆
法律のお話もそうなのですが、議論の焦点を明確にし、かつ外さないということは、存外に難しいことだと実感しております。インターネットにおいては掲示板等で素人の議論を見る機会に恵まれるので、なおさらそれを感じます。勿論、それで飯食ってる人もそれがクリアできているかといえばそうでもなく、法律のお話でいえば、センチメンタリズムでその境界を曖昧にしている例が行政にさえ存在するので困ります。少し話がずれますが、秩序は自由への抑圧ではなく、自由を保障するものであるという感覚がないから、無秩序という状態を招き、ひいては秩序が抑圧に利用されるという状態を生み出している、これは不幸なことだなあと思うのです。』


# summercontrail 『ドロ氏ーこんばんば。更新に関係なくお話はお話で全然おっけいです代、歓迎でおます。そのウロコ座布団、私の目から山田君が持っていったものなので注意セヨ#
 お話を受けてそれを別の書きかたで書いてみるのですが、私の中で微妙に感覚が引き裂かれているようにも思えるのは、実際に法≒ルールを自分の情感の道具として踏み台にしている面も、というか自分という存在を肯定する道具としてメランコリックに心情吐露、みたいな部分もおそらく否定はしきれないんだと思うんですよ(意識としてはそれを忌避していますし、むしろ逆のバイアスがかかっている傾向は自分で感じますが)。
 と書いてしまうとまたフォローや励ましを頂くためのポーズみたいになってしまってまいっちんぐですが、さらに話が屈折すると、〈自分を肯定するための手段であっても結果としてそれが何か状況や他者のために役に立つならば、とくに非難されるべきものではない〉とも思うんですよね。たとえば国境なき医師団というNGOに所属してアフリカで活動されている医師の本を読んでそう感じます(登場するスタッフにそのような人もいて、著者の医師はそれをニュートラルな視線で描かれています)。
 問題なのは、自分以外の誰かを断罪しているような形で「それ」が現れてしまうことで、これは相手の受け取り方も表現者側の表し方(+内面)もケース毎にそれぞれあると思うのですが、あんまり自分の個人的な体験を念頭において書くのは限界も語弊もあるし、ちょっとおかしな方向にそれがちかなと自戒もしています。他の方のブログでも昔からそういう逸れ方は(私に限らず)あるようです。その逸れ方が怒りとして現れると”フレーム”(近ごろは「炎上」というんでしょうか)になってもうアレですね、もちろん私も含めて。
 最近知ったのですが、山本七平が「日本教」という言葉で指摘している価値観がどうやらこういう日本社会の雰囲気をかなり的確に言いあてているようだと気づきました。ネットでは「圏外からのひとこと」のessaさんや「HPO」のひできさんがよく山本七平を紹介してらっしゃるのですが、私は実際に山本七平の本を読んだことがまだないので、今度読んでみようかと思っています。(私のクリップした関連記事はhttp://b.hatena.ne.jp/summercontrail/?word=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99&submit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2から見られますが、あるいはご参考になるかもしれません)
 あとは中島義道がそういう、心情による説得で共感を強いる人々への違和感のようなものを(おそらく「あえて」)強く提示していたりして、最近は色々頭の中でつながっています。つながりすぎて焦点ぼけてますねきっと(笑)』