三浦綾子『塩狩峠』


 再読。さっきなんの気なしに手にとってパラパラと読み始めたのだが、そのまま最後まで読んでしまった。読みやすい。


 どういう物語かというのは知っている方も多いと思う。結婚を目前に控えていたある熱心なクリスチャンの青年が、自分の身を犠牲にして列車の脱線・転覆を止めたという箇所がクライマックス。
 と、書くと空虚で嘘くさい偽善の物語に読めるかもしれない。

 その空虚さ、嘘くささがじつは物語のテーマといえる。自分の心の中の思い上がり・傲慢について考えそれと闘った人、闘いには勝てないと知り神に委ねようと努力するに至った人を描いた小説。フィクションだが、モデルは実在する。

 前半では、主人公の感じた「ヤソ」(キリスト教)への反発や、キリスト教徒である母への愛憎入り混じった複雑な感情などを綿密に描いている。日本の伝統的価値観との衝突、祖母の教えとの食い違いについてもわかりやすく描いているので、その点では例えば「はてなグループ」でモヒカン族を標榜している人たちにもあるいは興味を持って読まれうる作品かもしれない。


塩狩峠 (新潮文庫)

塩狩峠 (新潮文庫)


 今回手に取ったとき、この作品とキリスト教との関連部分を読もうとは思っていなかった。目に止まったのは主人公が幼い頃のさまざまな話。『路傍の石』や『次郎物語』もちょっと思い出した。例えばこんなくだりもあった。

「信夫。自分の心を、全部思ったとおりにあらわしたり、文に書いたりすることは、大人になってもむずかしいことだよ。しかし、口に出す以上相手にわかってもらうように話をしなければならないだろうな。わかってもらおうとする努力、勇気、それからもう一つたいせつなものがある。何だと思う?」
「さあ」
 信夫は首をかしげた。
「誠だよ。誠の心が言葉ににじみでて、顔にあらわれて人に通ずるんだね」
 貞之はそういって、またしずかにうちわをつかいはじめた。
(誠の心、勇気、努力)
 信夫は少しわかったような気がした。
「おとうさま、それでも通じない時もありますね」
「うむ、ある」
 貞之は、トセに通じなかった菊の信仰のことを思った。
「しかし、致し方ないな。人の心はいろいろだ。お前の気持ちをわからない人もいるし、お前にわかってもらえない人もいる。人はさまざまの世の中だからな」
(だけど、うそつきになんか思われるのはいやだな)
 信夫は蚊やり線香のうすい煙をながめていた。
(そうだ。もっと本を読もう。本を読んだら、自分の気持ちを上手にあらわすことができるにちがいない)
 信夫はその時から、読書に力を入れようと決心した。

 「誠(まこと)」というのは小林秀雄のいう「良心」のようにとらえどころのないもので、自分のうちに秘めておくか、引用部分のように父と子というような関係においてヒントのように投げるしかない。露骨に主張することは避けたいし、少なくとも相手に要求できるものではないなあと思う。あるいは「相手がどうであれ、自分は持つべきもの」を誠意と呼ぶのかもしれない。

 上に引用している信夫のように、全部気持ちをあらわすことがよいとは思わないし、『塩狩峠』が「全部あらわせ」と勧めているわけでないことは作品を通して読めば容易に理解できる。
 ただ「上手に」あらわしたいとは思う、が、当時の「本」と今「本」と呼ばれているものは相当内容が変わってきているので一概に読書をすすめればいいとも思わない。最近一部で話題のコミュニケーションスキルの話になるが、むずかしいなと思う。私自身についても、「本を読めばもっとコミュニケーションスキルの程度が上がる」と確信してはいない。話が脱線した。


 (男女の)性の問題、「偽善」という問題。ものごとを深刻に考えるということの意味。人を見下すということ。
 そうした事柄についてしっかり書いてあることに、今回気づいた。しっかり書いてあるとは、単純な形で大量に書いてあるということではない。読むその時の自分に応じて見えてくるものがあると感じた。

 無論、生き方や価値観については言うまでもない。Amazonのカスタマーレビューでも大勢の方がそれぞれの読後感を書かれているので、そちらも参考になるだろう。


 何度か書いているが私はキリスト教徒なので、その点を割り引いてこのレビューを読まれたほうがいいだろう。と書いておく方がたぶんフェアなのだろうなとは思う(よくわからないが)。