はてなブックマークで引用しきれなかった部分


 最近の記事をまとめて見ていると、http://teruonikki.blog55.fc2.com/blog-entry-571.htmlが気になったので、はてなブックマークでクリップした

 そのまま記事を読み進めると、なるほどなるほどと思う文章がたくさんあって、100文字というはてなブックマークに引用しきれないのでここに書き留めておきたくなった。

集うもの約200名、無教会老いたり。衰退もはなはだしい。これが現実。自然現象●これに対してはどう対処すべきか。ホスピスの精神がよい。延命処置は人間の精神。神の手に任せ自然に生き、自然に死ぬのがよい。

 組織の内部にいてこう言える人はなかなかいない(歴史的に官僚の組織をみてもわかる)。ほかならぬ無教会ならではということもあるのだろう。ホスピスの精神、というかその方向性をこのように正しく理解している人も意外と少ないのではと思う。ホスピスは"癒し系"ではない。


 25歳で失明した女性が話された内容の紹介も、読むことができてよかった。

「神様、あなたは明日のことは思い煩うなと言います。それならこの私の目を開けてください。もし出来ないのならこの命を取り上げて下さい」と。結局、私の目は開きませんでしたが、イエス様が私の光となってくださいました。それ以来25年以上経ちました・・・・・万歳、万歳、万歳。綱野さんは肉の目は開かなかったが霊の目は開いた。幸福な生涯。感謝。その顔は平安で目明きより美しい顔をされている。

 画面を見ている私も心で万歳を共に唱える。ある本に載っていた逸話も思い出す。祈りは、肉体のとげを取り去らずそれに耐える強さを与えてくれるときもある。強さが与えられるというのは、強さが自分の属性となるのではなく、自分の弱さが、イエスによる支えをより強く感じられるようになる恵みとして働くということ。
 もちろん(というべきだろう)、祈って癒された人もいる。その方も、絶望の中から、あるいは絶望とともにある信仰を大いに語ってとどまるところをしらない。もう何年も毎週読んでいるその方の著書を、そのうちご紹介したいと思っている。


 高橋さんの記事に戻ります。

気の毒な人を慰めるには「イエスの復活」という使徒伝承以外にはない。「イエスの復活」はどんなに不遇な人をも慰めることができる「力」であることをこのとき実感した。

 別の言い方をするなら、慰めることができるのはイエス以外にはないということではないかと思う。人間の同情・慰め・憐れみにはエゴと限界があり、その効果にはさらに限界がある。
 ある言葉で検索すると、むさしのルーテル教会牧師が書かれていた。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/87.htm

はらわたで相手の気持ちを受け取る。これこそスプランクニゾマイということなのです。私は牧師となって、苦しみや悲しみの現実に立ち会いうことが多い生活を送っていますが、主キリストがはらわたがちぎれるほどに深い痛みをもって「牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていた」群衆を深く憐れんでくださったということの大切さということをよく考えます。キリストがこの悲しみ、痛みを共に背負ってくださる!だから私たちは主にすべてを委ねてゆけばよいし、それだけでよいのです。

 砂の上の足跡もそれだと思う。


 この(私の)記事を読んで、クリスチャンでない方々はちょっと仲間はずれになった気分かもしれませんが、そういう意図はないので、まあそういう考え方をする人たちもいるんだなあと思っておいてくださればさいわいです。