香田さんの斬首動画を見ること、語ることの意味

 「図書館員の愛弟子」というブログが、香田証生氏の斬首動画と見ない自由という記事で、私の記事死を見つめることの意味を紹介してくださいました。

 ご紹介いただいた記事は、主に「殺されていく様子の映像を見るべきだ、という意図であのような論理を持ち出す文章、つまり極東ブログで引用されていた(引用元の)文章に対するアンチテーゼ」という部分に話を限定して書きました。今回も香田さんが殺されるまでの経緯、つまり国家と個人の関係や一般的自由の人権としての性質、また行動の政治的な是非といった事柄には立ち入りません。以下に書く文の内容は、香田さんが素晴らしい人間だったのか、自業自得で殺されたのかといったこととは無関係に成り立つと考えています。

googleの検索結果について

 これまでも当事者からクレームがあったり問題があるケースについては、検索結果に表示しないという措置をとったことがあるようです。ここで私が書くことも少しためらうのですが、「google八分」このリンクからたどっていくと概要を知ることができます(さあ、これでひょっとしたら私もgoogle八分になるかもしれません)。

「見たい人が見る自由」について

 私は若干違う考えなので少し書いてみます。

香田さんの動画は、社会的な規範として一律に、見るべきだとも見せるべきではないとも言えない。事実として、流通するからである。見るかどうか決めるのは、決めるのは各自の判断だろう。各自が判断ができるような提示の仕方についてだけは、社会的な規範として論じられる必要はある。
 もちろんそのような自由を前提とした上で、この共同体に生きるそれぞれが、見た方がいいか・制限を加えるかべきかといった意見の交換はありうるし、議論の場があることをありがたいと思う。

 強調は引用者の私左近が付しました。はたしてそうだろうか、という疑問は感じます。

 まず、「現状としてこうだ」という話と「こうあるべきだ」という規範の話は分けて考えなければいけませんよね。現状の正確な把握はしなければいけないけれど、それが安易な現状追認となってはいけない。仮に事実として強盗が頻繁に行なわれていても、やはり規範としては「強盗はよくない」と言えるはずです。

 今回のケースについても、各自が判断ができるような提示の仕方についてだけでなく、事実として流通すること自体、つまり〈各自の判断で動画を見たり見なかったりできる状況そのものが修正されるべきかどうか〉も社会的規範として論じられる必要があると考えます。

 そして、死んでいった本人の人格権やプライバシーという見地からは、流通自体が否定されるべきだという結論も充分成り立ちうるように思います。これは、見るかどうか各自が判断できる自由、そのような自由を前提とする前に、その対象となっている一人の死者、そしてその遺族への配慮をした方がいいのではないかということです。

 もちろん、私のこの文章も含めてこうした議論が自由にできること自体はありがたいことです。しかし、議論の対象となっているいわば一次資料的なものに触れる必要があるかといえば、必ずしもそうは思いません。そのような(一次資料的なものに触れる)自由を前提とするかどうかも含めて議論の対象とすべきでしょう。
 そして、私自身は、今回の事件についてはそのような自由は優先しないと考えています。自分や親しい知り合いが残酷に殺されていく映像に自由にアクセスして欲しいとは思いませんし、仮に事実として流通していたとしても、その映像に自由にアクセスする「権利」が赤の他人にあるとも思いません。

 たとえば、自分や知り合いが強姦され、その現場をビデオに撮られたとします。それが現実に流通していたとしても、それを「見たい人が見る自由」は別にないと思うし、見なくてもそのことについての議論は可能ですよね。
 強姦は極端だ、感情的な例えだと思われるかもしれませんが、ならば首を切られて死ぬのは極端ではないのか、とも思います。

 そして、現実に流通してしまっていることを踏まえて、じゃあ自分はどうあるべきか、というのが焦点なわけですよね。 自由にその映像を見られる状況にしてそのような自由を前提とした上で、それを題材にさあみんなで語り合おう、というのは「あるべき姿」ではないように思います。現在の状況について論じるにしても、事件の当事者、死者への敬意や遺族への配慮がまず先に来るべきだと思うのです。
 なるべくならそっとしてあげてほしい、そして「あえて語る意味がある」と踏み切るとしても、語られる側の痛みは念頭に置きたい、それが私の正直な気持ちです。


 また、「見たくない人が見ない自由」の例に判断能力のない子どもが帰宅して一人でパソコンを立ち上げ、見てしまえるような状態にするのはまずいとありましたが、私たちの判断能力は、いったい子どもとどれほど違うのか。どんな残虐な場面を見ても平気なほど、はたして人間の判断能力は成熟しているのだろうか、という疑問を私は以前から抱いています。所詮程度問題にすぎず、純粋に客観的に判断できるような理性と判断能力は誰も持ち合わせていないと思っています。これは今回の映像について、流通させること自体について否定的に働く要素になるでしょう。

蛇足

 「図書館員の愛弟子」のroeさんは図書館で働いていらっしゃるそうです。見る自由と検索サービスの前提という記事も、roeさんの図書館員という立場と経験からくる貴重な視点だと感じました。

 今回の香田さん事件から離れて一般論としていえば、市民一人一人に、判断能力向上の機会と判断資料を十分に、できるだけ制限されることなく提供されることが必要かつ重要だ、そう私も考えています。最近はマスメディアとインターネットの二者の関係について考察を加える文章をよく目にしますが、図書館も重要なプレーヤーであることを忘れてはならないと気づきました。マスメディアと異なり、無料で、しかも求めに応じて受動的に(この意味でマスメディアよりもいっそう公平に)情報を提供する(べき)公的サービスである図書館は、昨今の議論の中でもっと注目されていいように思います。