徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい


 今回の記事は、

  • 趣味のWebデザイン備忘録を書いている徳保隆夫さんの考えや文章に、ふだん関心のある人
  • 議論の際にフェアである/フェアでないとはどういうことかの実例に触れたい人
  • 「他人の人格に対する、科学の衣をまとった宿命論的決めつけ≒差別が、一見便利なsocial hacksに見えてしまう」という危険について、認識しておきたい人
  • 『我と汝』という本に関心がある人

 以外の方には、あまり読んで面白くないと思います。
 一般に、不当さ、事実との乖離、醜さについて指摘すると、読んで楽しくはない文章になります。
 
 ただ今回の件については経緯と立場上、私しか指摘できる人がいないようなので、記録としての意味もあり書いておきます。


そのようには生きられない・4を公開された2日後に、


そのくせ私が古い記事を「何となく気に入らなくなった」ので削除したり、大幅に書き換えて全然違う内容にしたりすると、「どーしてですかっ!?」みたいな反応があったりする。そんなの私の勝手であって、説明なんかする気はない。「文句をいう暇があるなら転載しろ」と私は何度もいっている。
 と書かれた徳保さん。
 そのようには生きられない・4に重要な部分に改変をされていましたし、気づいただけでもそのようには生きられない・3がかなり改変されていました。3か月近く経ってそろそろ内容も落ち着いたでしょうから、反応の記事を載せておきます。今後また記事の内容を改変されるかもしれませんが。

 なお、


私だって転載には条件をつけています。

* 転載・改変した情報に起因する全ての問題について転載・改変した者が責任を負うこと
* 転載・改変した情報の再転載・再改変を容認または黙認すること

この2項目をないがしろにする者には、転載させない。「

 と書かれていますが、いったん書いて公開した記事の内容については、書いた人が責任を負います。このことは、転載されてもされなくても、あとで削除・改変しても変わらないので、念のため。


 考えが変わったならその時点で「考えが変わった」と書けばいいので、相手から反応があった後に書き換えるのは、ファクトを隠蔽する行為です。読者の目とか体面を、気にしすぎなのではありませんか。

 徳保さんは理系だとおっしゃるけどその割には、科学が検証のプロセスだということをあまりにも軽視しているのでは。
 自分の書いた文章を改変するのはもちろん自由ですが(ただし「備忘録」という名前に反する)、
 特定の読み手との相互の応答を想定した文章について、
 応答を受けた後に内容そのものを改変して、
 事後的に自分の主張の説得力や妥当性を増そうとするのは不誠実です。

 前提を覆された相手と、
 実際の経緯を把握しづらくなる他の読者と、
 その文を書いた過去の自分と、
 後悔するかもしれない(そして、きちんと恥をかくことで成長できていたかもしれない)将来の自分に対して、
不誠実です。そういうちゃぶ台返しは。

 そのくせ私が古い記事を「何となく気に入らなくなった」ので削除したり、大幅に書き換えて全然違う内容にしたりすると、「どーしてですかっ!?」みたいな反応があったりする。そんなの私の勝手であって、説明なんかする気はない。と徳保さんが書いていることについて、私が代わりに説明するとすれば、徳保隆夫さんがご自分の記事を改変するのは、徳保さんの卑怯さと傲慢さと臆病さの入り混じった態度の、表れの一つです(そのような言い訳を含めて)。

 そのように事後的に細々と(あるいは大幅に)改変されることを前提とした無責任な記事に対しては、真摯な応答はできないのですが、もともとのテーマが重大なので、私の把握している経緯に沿って一応書いてみます。

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この後、仮に暴言を吐いた人が「天王星人だから」を理由に左近さんの知人と話をしなくなったとしても、それは衝突の経験があったからこそ。他の天王星人とは、当たり前のように話をしているに違いない。つまりここで「天王星人」は、「なぜ対話が失敗したか」という問いに対する当座の仮説に過ぎません。

 衝突の経験があったからこそ、ではなく、「天王星人だから」という口吻が衝突の原因です。だから「他の天王星人とは、当たり前のように話をしているに違いない」となる根拠はありません。他の「天王星人」に対しても(表向きは当たり前に話をしていても)、表面化すれば相手は怒るでしょう。「うまくやれ」「表向きは当たり前に話をしろ」というのはただの欺瞞です。

 それに、その暴言を吐いた人は、そのやりとりに関する限りそもそも「対話」をしようとしていたとはいえないでしょう。

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一人の新人の嘘が、他の新人の信用まで落としたケースの解釈にも、疑問があります。

いちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする例は、書類の数字を「検査」しているのであって、人格を検査しているのではないと思います。……おっしゃることはわかります。しかしこのケースでは、数字の検査=信じられる人間かどうかを確認する作業、なのです。模範囚の仮出所が早まるのと同じこと。

 私には徳保さんのおっしゃることがわかりません。そのケースは徳保さんが想像したものとはいえ、徳保さんの解釈には無理があります。
 徳保さんは、(記述が以前と変わっていなければ)以下の例を挙げていました。


仮にある人が、新人が上司にウソの報告をあげているのを見つけたとする。するとその人は、「最近の若い子は嘘つきね」と予断を持つ。以降、他の新人たちの報告書まで、精査するようになる。横から見ていても、その人が新人を信用していないことはバレバレ。いちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする。

私はこの人に「予断を持つな」とはいわない。「もう少しうまくやれ」という。書類のミスは見逃さないというアピールも、行き過ぎれば萎縮の弊害が強くなる。

 「最近の若い子は嘘つきね」というのは女言葉ですが、徳保さんの挙げる例え話はどれも女性が感情的になって理不尽な行動に出る例ばかりですね。というのはまあ大目に見てあげるとして。
 それは「信じられる人間かどうかを確認する作業」ではなく、単に「(ある特定の属性を持つ集団に属する)相手を、自分は信頼していない」という態度の現れでしょう。


相手の人格を断定することはできないからこそ、「信頼」という概念が出てくるのではありませんか。
 しかも、そもそも「ウソの報告」と「書類のミス」とは、テーマとの関係では、決定的に違う事柄です(例えば徳保さんが事後的に文章を改ざんしているのは、新たな閲覧者に対する「ウソの報告」です)。「信じられる人間かどうかを確認する作業」と、「書類のミスは見逃さないというアピール」も、方向性が違います。

 もともと、


部品によっては不良率0.01%とかそういったレベルの話になっていて、それを超えると「要注意だから全数検査」となったりします。過半数なんていう基準じゃない。こういうのを見ているから、私は「一部の人間のせいでみんなが色眼鏡で見られる」のが悪いことだとは思わない。危ないと思ったら全数検査でいいのです。
 に対して、

 質問させてくださいね。

* 人間の人格の検査は、例えばどのような方法で行うのですか?
* 検査の結果は誰がどのように判定するのですか?
* それは「断定」といえますか?
* その判定を行う人の人格については、誰が検査するのですか?
* その評価の対象は、果たして「人格」なのですか?

 私は、「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないと思っています。

 と書いた私の記事に対し、一応、質問への回答として書かれたものです。なのに、なぜいつの間にか、〈書類のミスは見逃さないというアピールの程度が行き過ぎかどうか〉の話になっているのでしょうか。ご自分の主張は間違っていないと言いたいからといって、テーマをずらさないでください。

 結局、徳保さんの挙げた例え話は、徳保さんの私の「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないという主張に対して、応答としての意味を持っていなかったということです。何度もお願いしていますが、ずらしたミスリードはしないでください。

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ともあれ、あれも違う、これも違う、とするならば、一体どこに人格の断定がまかり通っているのでしょう? 血液型占いにせよ何にせよ、規制するほどのことなのか。

被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)

先験的に女性やAB型の抗議が無効判定されるケースがどれだけありますか。偏見の影響がゼロという事例は、なるほど少ないかもしれません。しかし抗議が却下された主要因が、本当に「女性だから」「AB型だから」なのか、疑問に思うのです。

 徳保さんが持ち出す例について私があれも違う、これも違う、とするのは、〈穏当で問題視するべきでない〉と思える例ばかりを徳保さんが持ち出しているからでしょう。
 人種差別、女性差別、民族差別、居住地域、そのほかさまざまな不当な差別の実例があり、(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)と書きました。なぜ「主な」要因でなければ問題でないのか、わかりません。血液型による就職差別は、採否をそれだけで決定するものではなく一つのファクターにすぎませんでしたが、にも関わらず徳保さんも最終的には問題視していましたよね。

(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すこと

 のうち、〈(1)には該当しないようにみえるが、(2)や(3)、場合によっては(3)にだけは該当する例〉を挙げますね。なにか私が頭で空想したような都合の良い例え話ではなく、実例です。

 ナチス優生学です。


 当時のドイツでは、ユダヤ人が虐殺されただけでなく、精神障害者なども断種(強制的な不妊手術)をされたりしたといわれています。
 ユダヤ人については、強制的に労働に従事させ、死ぬと遺体(の脂肪分)を石鹸にしたりしたそうです。資源を無駄にしない、ある意味では非常に合理的な発想といえます。

 優生学そのもののロジック・論理展開について、私は根本的な論理破綻を指摘して批判することができません。論理破綻はないのかもしれません。しかし前提とする価値観に対しては、私は強く反対します。

 彼らは、ユダヤ人等の個人の人格・人間の尊厳の価値をまったく無視していました。あるいは、人格・人間の尊厳の価値というものを、かぎられた一定の範囲内でのみ機能する(他と同列の)ファクターとしてしか認めず、それ以上の価値を持っている可能性を排除する(または、排除して良い)という前提に立って行動していました。
 これは「人格に対する断定的な評価」でしょう。そのことについては強く反対するし、すべきだと思います。

もし女性は感情的で、AB型は二重人格で、感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら、その対応は別に間違っていないと私は考えます。どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。と主張する人には、甘んじて外道と呼ばれます、と私は答えます。

 ナチス党員だったら、強制収容所の職員だったら、当時やはり似たようなことを言ったと思います。KKKも同様の主張をするでしょう。それとの違いを考えてみてください。(「極端」かどうかでいえば、徳保さんの上の引用部分に表れている考えも極端です。)
 なお、「人格」と「主張の価値」はイコールではありません。およそ主張ができないような、すくなくとも筋の通った主張のできないような、あるいは(意識もなく)ただ呼吸をしているだけのような人の存在にも視野を広げてください。こういう文脈で「具体例」を挙げたくはありません。


被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)
 徳保さんが言っているのは、〈そういう対応をされ続ける人がいても、生まれてから死ぬまで数十年生きたとして、数十年ずっと抗議すら聞いてもらえず、悲しい気持ちをしたり絶望したりするその瞬間瞬間の総体について、別に問題と感じない〉ということです。主張が無価値と「立証」されていれば。



しかしこのケースでは、数字の検査=信じられる人間かどうかを確認する作業、なのです。模範囚の仮出所が早まるのと同じこと。

 違います。会社の新人は囚人ではありません。先輩や上司だからといって、看守と似た立場にいると考えるほうが間違っています。そこにも徳保さんの傲慢さが無自覚に表れています。

 徳保さんは塾の教え子に対する関わり方の記事や、インド人が遅刻したら相手の宗教など知らなくても「善神に化けてあなたを惑わそうとする悪神の企みに負けてはいけない」と言うものだという記事からして、相手への率直さ、誠実さを欠いたsocial hacksらしきものを誇っているように思えます。それはとてもむなしいことです。

 また、判定者(と自分では思っている人)が、確認作業の結果、「およそ新人というものはみな信じられない」という最終的な結論に至ったら、その自称判定者はどういう行動をとることになるのでしょうか。どういう行動をとるつもりにせよ、会社としては新人よりもその自称判定者の方に警戒が必要でしょうね。内部でも外部に対しても大きな問題が起きる。

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「倫理」は個人のもの、「道徳」は社会のもの、と左近さんは定義されているようなので、私の書く「倫理」は適当に「道徳」と読み替えてください。いくつかの辞書を見る限り左近さんの定義に一般性はなく、「倫理」と「道徳」は文脈上可換であることが多いようです。私もそのようにこの二つの言葉を用います。

 私は


 倫理というのは、これをすべきか、すべきでないか、という個人のなかの規範です。私が押しつけるからとか、社会の多数派が押しつけるからという理由で存在しているわけではありません。私としては、「倫理」と社会の「道徳」を混同して使うことは避けたいと思っています。
 と書きました。
 私は徳保さんと同じように一人の生身の人間であって、社会の道徳を体現している抽象的な存在ではありません。左近は世間ではありません(母音が違います)。私を社会とみなして勝手に敵視されても困ります。こうしたことは既に2005年11月に、

コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……に対して


強きをくじき弱きを助けていればそれでいいわけではない。

 どちらが多数派かなどという勢力争いには関係なく、ただ率直に行為の是非や当否を自らのうちで問うべきではないのだろうか。

 などなど、徳保さんからのトラックバックに対して書きました。常に厳密に用語を使い分けて欲しいとは思いませんが、社会の外的な規範とは別に、個人にも内的な規範が存在することを、徳保さんにはもっと意識しておいて欲しいと思います。

 それから、日本語の辞書は類語を並べているだけのことが多く、べたに読んでも個々の語義の違いについてはあまり参考にならないということは憶えておいた方がいいでしょうね。シソーラス類義語辞典をお薦めします。私の手持ちの「角川類語新辞典」では違いが反映された表現になっていました(ATOKと連動して使えるので便利ですよ)。

 倫理と道徳の違いについては、ネットにはたとえば次のような記述があります。


 倫理と道徳の関係を考えてみると,道徳は,それに強制される者の合意がなくても,一定の社会規範(例:村の慣行,ヤクザの掟)として存在しており,伝統的,文化的,歴史的または社会的にその遵守が強制されている。倫理の多くは,それに強制される者の合意に基づく場合または当該倫理というルールが適用される環境へ入ることについて当該の者の同意がある場合が多いと考えられる(特定の職業倫理の遵守が求められる集団への任意の加入行為など)。倫理は,現代社会においては,その強制を受けるかどうかという点について,本人の同意または合意があることが前提になっており,それが強制される環境からの脱退も許されている。これに対し,道徳の場合には,生まれれば自動的に強制されるものであって,当該道徳が適用される環境からの脱退も事実上できないことが珍しくない

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私が問題の発生頻度を気にするのは、その対処方法として「広範な規制」と「個別に対応」という選択肢があるからです。人の生活に「当座の仮定」は必要不可欠で、オカルトの存在意義はそれなりに「ある」という立場を私はとります。だから広範なオカルト規制には、それに見合う十分な法益がなければ賛成できない。

 発生頻度ということなら、血液型に基づいた性格判断についての会話は日常的に頻発していますよね。
 また、血液型と性格の相関関係は既に否定されている(にもかかわらずいまだに信じている人が多い)ことからわかるように、「当座の仮定」というようなものではなく、もっと閉じた体系であって、オカルトとはまさにそういうものです(参照:オカルト - Wikipedia)。科学的手法に対して開かれていないので、「当座の仮定」、すなわち後の検証によって修正・改善されていくべき仮説としての意義は認められません。
 より重大な被害を生じさせないためにも、小さい事件についてはそれに応じて小さく抗議してよいのです。その抗議を「圧殺」しないでください。日本の過去の重大な社会的事件には、その予兆や、それを許す土壌、(徳保さんや私の嫌いな)多数派による「空気」の醸成が先行しています。いわゆる「割れ窓理論」には一定の説得力があります。

 それから、私はなにか広汎なオカルト規制の主張というよりも、あくまでオカルト批判への反発をめぐる個人の倫理の問題について書いてきたのですが。オカルトを科学のように描いてみせるメディアに対して、批判が出ると、今度はその批判に対する強い反発が出てくる。そうした反発に対して反応したのが、私の関連記事の発端です。夏のひこうき雲 -  血液型と星座と疑似科学、統計の「ウソ」、情報リテラシー、これ。

 なお、放送メディアについては、電波の有限性と公共性、その影響力の大きさから、現状でも一般人の言論とは異なる広汎な規制が法律上なされています。まあ、何を法益とすべきかは「価値観」の問題ですが。


左近さんは人格の断定など不可能だという。だったらそれで満足すべきで、仮に可能であっても云々は過剰な規制です。過剰な規制は、過剰というだけで批判されていい。倫理の重視にもバランスがあって、私は左近さんのそれは行き過ぎと感じるのです

 どの部分についてなぜ行き過ぎと感じたのか、示してくださらないのでわかりませんが(徳保さんはそのくせ私が古い記事を「何となく気に入らなくなった」ので削除したり、大幅に書き換えて全然違う内容にしたりすると、「どーしてですかっ!?」みたいな反応があったりする。そんなの私の勝手であって、説明なんかする気はない。「文句をいう暇があるなら転載しろ」と私は何度もいっているその他、およそご自分の文章についてアカウンタビリティ*1を欠いている)、お答えできる範囲でお答えしておきます。


 私は何か個人として行政上または立法上の規制権限を持っているわけではありませんし、「仮に可能であっても云々」は、徳保さんと同じく個人としての考えの吐露に過ぎません。だから「規制」ではありません。
 また、内容からしても、「仮に可能であっても云々」は「過剰」な規制だとも思いません。理由は、夏のひこうき雲 - 人間はオートマトンではない/応答の真っ当さの「2」の段落に


 別の角度から言えば、たとえば(1)に該当するかどうかはちょっとわからないこともありますよね。客観的な真偽を判定することが比較的容易な数学の証明でさえ、その分野の他の研究者による検証にだいぶ時間がかかることがあるぐらいだから。

 だから、せめて(2)(3)のような言動に出ることは控えておこうという観点からも、(2)も(3)も問題といえると思います。

 などなど、書きました。

 もう一度引用します。


左近さんは人格の断定など不可能だという。だったらそれで満足すべきで、仮に可能であっても云々は過剰な規制です。過剰な規制は、過剰というだけで批判されていい。倫理の重視にもバランスがあって、私は左近さんのそれは行き過ぎと感じるのです

 血液型性格診断と称するあれは、メディアでの扱いが行き過ぎだと私は感じました。人格の断定が不可能だと思っていない、あるいは断定してもいいと思っている人はたくさんいるし、決めつけにあって不愉快な目にあった人の話は身近に何例も聞いている。断定が可能と誤解した上でのそういう「言動」こそが問題なのです。

 徳保さんはご自身の判断基準を、個別のケースについての「極端」「行き過ぎ」「あおりすぎ」「過剰」といった結論でしか表明されていないようですが、それこそ自分の「倫理」の他人への押しつけになりかねない。奴隷制廃止論にしても、地動説にしても、当時は「極端」「行き過ぎ」と思う人が相当数いたでしょう。


 事実第一主義、ロジックよりもファクトが大事と徳保さんは他の記事でも書いています。しかし、ファクトだけならチンパンジーでもドバトでも知覚できます(そういう実験があります)。ナチス優生学も、冷静に観察したファクトをも基礎としていることでしょう。また、自己実現的予言は、結果的に予言が成就したかどうかとは別に、そのような予言をすること自体に弊害があります(否定的なものについては)。
 だから、知覚したファクトの意味の解釈や、価値観も、たいへん重要な問題なのです。ミスリード(誤った誘導)がないか、巧妙なレトリックの混入によって論理的破綻が隠蔽されていないかどうかという局面においては、ロジックの検証が重要な意味を持つのです。

 またもや改変されているかもしれないと思うとどの記事中の記述だったか探す気にもなれないのですが、徳保さんは、血液型による就職差別については(いったん「そんな企業は淘汰されるから問題ない」というような主張をした後、とくに理由も挙げずに撤回して後の記事で)「就職差別など極端な例については是正しつつ」というような内容のことを書かれていましたよね。そうした点については同意していただいているわけです。

 ならば、どの要素/どの変数がどの限度を超えれば「極端」だと自分が考えているのか、それを徳保さんなりに頭の整理をしてみたらいかがですか。
 論破とか批判されるのが嫌なら、公開を前提とせずにご自分のパソコンの中で書いて練ってみるのもいいでしょう。表現や言い回しではなく、内容そのものを、です。
 アウトプットしないと損した気がするというようなことを前に書かれていましたが、「アウトプット」は何も「世間の目に触れさせること」とイコールではありません。
 自分のロジックを言語化し可視化して、自分から切り離して眺めれば、自分の考えを客観視することが少し容易になります。


 総じて、ここまではっきり具体的に指摘され批判される機会はあまりないと思います。だから、私に対して腹が立とうと立つまいと、貴重なチャンスだと思って活用してください。
 私もあまりここまでは書きません。たいていは労力を惜しみます。そして、これでも、抑制しているのですよ。言い方だけでなく、内容の項目そのものを。

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ここまでの流れは以下の通りです。ただ、徳保さんが(私からの反応があった後に)ご自分の記事を相当改変しているので、私の記事だけを追った方が正確に経緯を把握できます。

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性
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そのようには生きられない徳保隆夫さんによる記事)
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夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び
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インド人の神様 そのようには生きられない・2
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夏のひこうき雲 - むしろそのようには生きられない
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そのようには生きられない・3
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夏のひこうき雲 - 人間はオートマトンではない/応答の真っ当さ
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そのようには生きられない・4