ネット上での行き違いに関する雑感

 あまり言葉にするのが適切ではない立場にいるような気もするのだけど、何も書かないのはそれはそれで自分の気持ちにそむいているように思え、そこまで気持ちを抑えるのもどうかと思うのでそれほど誤解を招かないと信じて少し書いてみる。


 ここ1週間ほど、あちこちで意見の相違から感情的な行き違いになってしまったケースを目にした。はてなダイアリーの閉鎖・休止にまで展開してしまった例もいくつかある。

 それぞれのケース毎に事情はさまざまだし、どれかを念頭に置いてどちらが悪いなどとは言いたくない。なぜ言いたくないかというと、私という第三者が好悪・賛否を明らかにすると、どちらかが力づけられる一方で、他方の当事者には、自責の念あるいは怒りとうらみ、それらの混合した感情を募らせることになる。
 そしてまさにそうした気持ちの蓄積が(ときには理不尽なまでの)攻撃の矛先をどこかに向ける大きな要因の一つとなってしまう。要因の一つとならないまでも、ないがしろにされている・つまはじきにされているという感覚を味わうことは誰にとっても愉快ではないし、私もそんな感覚を味わわせたくはない。だから、どちらが悪いなどとは言いたくない。


 前置きについての説明が本題に入ってしまっているのだけれど、今書いたとおり、〈自分が(誰かから)ないがしろにされている/(多くの人から)つまはじきにされている〉という感覚が、感情的な行き違いの根っこにあるのだと思う。あるいは自分でなく自分が共感を覚える他者の痛みを想像して、という場合もあるだろうけど。


 そうした悲しみ、怒りを感じたとき、どうするか。往々にして陥りやすい思考パターンは、そのきっかけとなった相手に怒りをぶつけるという行き方。
 怒りをぶつけないで済むに越したことはないが、怒りをぶつけることそのものがよくないとまでは思わない。というか、これを「よくない」と言ってしまってはまた新たな鬱屈を生むのだと思う。

 そうではなくて、どの点について、相手の発言がどう不当だと自分が考えるのか、その点について怒りをうまく絞り表すことができればまずはいいのだろう。

 実際には、相手にと同じかそれ以上の悲しみを味わわせたい、ダメージを負わせたいという(しばしば無意識のうちの)目的達成のために行動が統御されることが多い。そのような発想に基づいて統御されるということは、別の意味ではコントロールを失っているということ(的確に言い表すことができないのだけど)。


 こうした構造がネットではさらに厄介な問題を引き起こす。それはネットそのものの持つ特性による。すなわち、相手方への非難を不特定多数に感知してもらえるという特性だ。

 この特性を十分知っているがためにとくに行われやすいのが、ネットで相手のプライバシーに言及して中傷誹謗を浴びせること。簡単に相手に強いダメージを与えることができるから。
 プライバシーとはここでは広い意味で、文字通り秘匿されている・秘匿されるべき事柄だけでなく、相手の先天的(あるいは基本的)属性や家族に関わることなどという意味で使っている。実名の推測も、推測された人の家族が害をこうむる危険を生じさせるという意味で家族に関わることといえる。そのほか、要するに、議論によって共通理解を得ても本人が変更することのできない事柄についての非難が手っ取り早い方法として行われる。(他に例えば「バカ」という言葉も、知能が低い人が知能を高めることは相当困難なわけで、相手がどうしようもないこと・反論しようのないことについて罵る言葉という意味では議論の上で無意味。)

 プライバシーに言及して中傷誹謗というのは明らかにルール違反で、ぶっちゃけ違法な行為。なのにこういうことが行われやすいのは、まあ色々あるんだろうけど、たとえば個々人のうちに確固とした内的倫理規範がないために、世間様に判断させよう、世間様の前で恥をかかせてやろうという「恥」の文化が原因だとか、色々説明はつくんだろうとは思う。(それに対して世間様の前できちんと反論してしまうと、ますます怒りとうらみを増幅させてしまうので、なかなか打つ手がなく議論は膠着状態になる、というかその時点で既に議論ではなくなってしまっている場合は多い)

 ぶっちゃけ違法な行為であっても、ネットではまだ不問に付されやすいということもあり、またネットでなくても実際に法的手段に出ることのハードルが高すぎる日本社会ではほぼ泣き寝入りするしかない。訴えるというのは(紳助暴力事件被害者の時もそうだったが)かなり異常な行動とみなされるし、また他の面でもコストが高すぎて実用的でない。

 そこで、とりあえず「はてな」サービス内についてははてなアイデア 「?が希望ユーザーにのみ氏名住所確認を行う。確認済の者にのみコメント許可、との設定を可能にして欲しい。法的責任追及が容易になり、又予めコメントに際し自制促す効果も見込める。」という提案をした。賛同なさるはてなユーザーの方にはぜひ「アイデアの株式を購入」して欲しいなと思う。ただこれはあくまで制度的なリスク低減策にすぎない。


 で、やっと本題にはいるのだけれど、「自分が不当な目にあった」「誰かが不当な目にあった」と感じたとき、「相手も不当な目にあわせてやろう」「悲しみを味わわせてやろう」という発想は(ごく自然ではあるが)きわめて不毛だと思う。そういう発想をする人を非難したいわけではない。そういう発想に陥ってしまうと、誰も幸せにはならない。それで仮に攻撃に成功し、相手を痛い目に遭わせ悲しませたとしても、暗い喜びと同時に後ろめたさと自分への憎しみがこびりつく。その暗い喜びと後ろめたさと自分への憎しみとはますます悪循環へと導く。要するにフォースのダークサイドに落ちてしまう。


 ここからが本当の本題。自分や誰かが不当な目にあったと感じたら、自分はどうするか。それは相手の責任ではなく自分の責任。「事実と異なる」あるいは「不当だ」と自分が感じる点とその理由について淡々と伝え、相手の説明をまず待てば、自分としてはそれでよいはずだ。(もちろんその内容が相手や誰かのプライバシーに言及しなければならないことならば、何も公開の場でする必要はないしすべきではない。相手や自分の判断基準や倫理観は、不特定多数に決めてもらうものではないから。)


 その伝え方が相手の感情に対してとことん配慮をしている必要はない(私は礼節系というか対話の相手への配慮を過度に求めている人とみられがちだが、必ずしもそうではないと思う)。

 そんな淡々と伝えるなどという生ぬるいやり方では満足できない、「悪い奴」にはもっと効果的なダメージを与えたいと思う人もいるかもしれない。でも、的はずれな相手にダメージを与えてしまったら、あるいは必要以上にダメージを与えてしまったら、後で後悔するのは結局自分。

 まずはいったん立ち止まって、後で後悔しないと思える言葉と行動にとどめた方が、結局はうまくいくんじゃないかなと思う。相手が単純な誤解をしているだけの可能性は常にあるし、自分が単純な誤解をしているだけの可能性も常にあるから。


 特定の誰かを念頭に置いたりは一切していないし、いずれかのケースについて曖昧に誰かを非難しようというような意図も一切ない。
 〈人間は変わりうるが、誰しも陥りやすい、誰にとってもあんまりプラスにならない思考のパターンというものはある〉〈特定の時点・期間について見ればそのような思考パターンに陥ってしまっている人は存在する〉〈私としてはこれこれのように考えた方がベターだと思う〉というだけの文章にすぎない。

 あまり推敲もしていないので表現は粗いのだけれど、何か上のようなことをもやもやと考えた。