誠実というわがままと「嘘」の関係

 さっき歩きながらこんなことを考えていた。なんというか、誠実であるとは具体的にどういうことか、みたいな。


 昨日、人と(口頭で)中島義道について話していたら、こんなことを聞いた。


 中島義道はカントの影響なのか、とにかく嘘をつかないというか正直ということを徹底している。たとえば、怒り狂って友人を殺そうと追い回っている人がいたとする。その友人を自分の家にかくまっていたとする。その追い回っている人が自分の家にやってきて、「あいつをかくまっていないか」とたずねたとする。
 相手に自分も友人も殺されることが確実だったとしても、中島義道は「かくまっている」と事実を話すという。


 話してくれた人の記憶も私の記憶もふたしかなので、中島義道の書いた元の文章とは相当の差異があると思うが、とにかくそんなことを言っていた。


 それはそれで、どこまでも自分と他人に誠実であろうとする点で尊敬に値する姿勢だと思う。少し擁護すると、そのたとえで自分と友人とあるいは家族皆が殺されたとしても、それは殺した人の責任であって、自分自身はどこまでも忠実に自分の責任を果たすという態度だとも言える。自分の責任を果たすために、責任範囲を厳しく限定する。かなり違うけど、「悪法も法なり」と毒の杯を干したソクラテスを思い出した。


 しかし、ここからがさっき歩きながら思ったことなのだけど、以下のような逸話もある。

 第二次大戦中か、その少し前か、あるキリスト教の牧師が警察だかなんだかお上に尋問された。「お前の信じる神と天皇陛下と、どっちが偉いんだ?」
 牧師はこう答えたという「そんなことはとても恐れ多くて申し上げられません」。


 嘘をつかない「良い」方法だと思う。なんか一休さんとか吉四六(きっちょむ)さんの頓知みたい。私の心情としてはこちらに近い。鳩のように素直で、蛇のように賢くあるということはこういうことかな、とそんなことを適当に考えた。5分ぐらい。


 でもあまりにも適当すぎるので、今思い出して探してみた。
 モーリタニアの奴隷制

 話はイエスが弟子に宣教を命じるくだりだ。ここで、イエスは、福音を伝える弟子たちが、その訪問先で歓迎されないことを見越して諭しているのである。まず、受け入れてもらえる人と話なさい、通じない人には怒らないでユーモアを込めて足のちりでも落としておけ。これから出会う人々は狼のように危険だから、ちょっと人を騙すくらいの蛇の狡猾さを持ちなさいというわけだ。そして、ただ、狡猾なだけではなく、自身を貧しいながらも神に捧げられる鳩のように純真に使命感を持ちなさい。
 と、ここで私は蛇と鳩に解釈を加えた。

 バイブルスタディなど全然やっていないのにあれこれ書いて恥をさらして自分でも苦笑だが、自分の感覚としてはやはり「騙す」というのは感覚としては違う。ただ「騙す」というのが、上に紹介した「恐れ多くて申し上げられません」というようなことを単にきつめの表現で言っているのならばそれはその通りで、極東ブログの書き手finalventさんのスタンスとしてもそういう意味だろう(嘘はつかないようにしているという内容のことをおっしゃっていたし)。

 そして上記引用記事に当時自分が頓珍漢なコメントを付けていたのを発見してまた苦笑。まあ聞かぬは一生の恥ならぬ、書かぬは一生の恥ってね。元の朝日新聞社説の内容はほぼ忘れたし思い出そうともしていないので、どこが頓珍漢かも思い出す気がないというこのやる気のなさ加減(一応話題を絞りたいからということもあるけど)。


 さらに話がずれるけど、私のことを他所からの借り物で塗り固めているみたいにいう人がいて、それはまあそう見られても仕方がないかなと思う。文章に影響されやすくて、口調がすごい似ちゃってるし。
 たとえば「皮肉のようにとられるかもしれませんがそういう意図はありません」みたいな言い回しは、たしか本来の私の言い回しでは「皮肉などにとらないでくださいね」みたいな感じなんだろうな。
 ていうか、こういう内容ってなかなかうまく書きづらいので参考にしてしまいがちなんだろう。どういうことかというと、この場合だと要は「言葉通りに素直に受け取って欲しい」ということなんだけど、そう書くとただの押しつけになってしまいかねない(そしてこの例自体も「誠実さ」にかかわる厄介な問題を孕んでいることに気づいて愕然とし面倒になる)。

 話を戻して、書き言葉はどうしても型にはまってしまいやすいので、(ある程度の速度で書き流せる範囲では)自分の語感を取り戻すことに取り組んでみようかなと思っている。