鋭い感性をアピールして心に訴えかけようとする鈍感さ、たとえば私の

 考え込んでそのまま忘れてしまってもつまらないので、推敲をせずにとりあえずメモしておこうと思う。

 ドロCのインスタント人生ご覧あれ - 首輪でつないでを先日読んで、分かったような気がした。


ドロC金子みすヾはまったくダメ本当にダメで、彼女の詩からは自分の感性の鋭さを特別扱いする傲慢な匂いがする普通に日常を生きる人への愛情がまったく感じられないどころか軽蔑さえ滲んでいるので、書いてあることはイイコトなんだろうなそうだろうなとは思っても全くもって受け付けられません。

 これだ。きっと吉野弘の「夕焼け」という詩についてamehareさんが感じる感覚というのもそんな感じなのだろう(違うかもしれないしいきなりamehareさんのお名前を持ち出すのは申し訳ないけど)。

 私の中にはお二人のような視点が比較的希薄だったのだと思う。ドロ氏ー(ドロCさんが人からはそう呼ばれたいと以前書いていたのを愚直に憶えている)やamehareさんがきちんと「見抜いている」のは、きっとドロ氏ーやamehareさんが感性の鋭い人なのだからなのだろう。もちろん、いい意味で。

 表現の受け手の感性を侮っている人は、ことさらにその感性・感受性・心情に訴えかけようとしてひどく原則的な抽象論、あるいは不条理な構造を克明に描き出して見せようとする。たとえば、この私などがその類だと思う(最近はどうだかしらないがとくに以前は)。

 しかし、そこまで切々と当たり前のことを訴えかけられるのは、「そんなことわかっている」と思う人にとってはくどくて鬱陶しい。皆まで申すな、という感じ。(私などが)切々と訴えるのは、そうしないと伝わらないと思っているからなのだろう。


 以前、「あの詩がプロパガンダに見える」というような批判はおそらくamehareさんの意図とは別に私にも向けられているのでしょう、と書いたけど、より明確に見えた気がする。その意味でたしかに私は鈍感ではあったな。

 さらに以前、左近はたぶん左翼に近いみたいな記事を書いたけど、まさにそれもそのあたりの問題なのだろう。


 まあ少し自分で自分に言い訳してみると、私は相手の優しさを見くびっているというよりも、また相手の理解力を侮っているというよりも、自分の言葉の強さ・伝達する能力を軽視していて、だから原則論的な強い言葉、気持ちに訴えるような「純粋な」言葉を次々と使ってしまうのかもしれない。だから「伝えすぎ」になる。礼節系とかいう表現を目にしたがたぶんそんな感じでもある。
 あと、アフリカ人少女を狙うハゲタカの写真は、何よりも写真家自身が衝撃を受け撮影した、その写真が持つ他の人への破壊力を考えなかった、と想像したい点ではなんとなく私は写真家に同情的で、これもまだ自分に甘えがあるところなのかもしれない。
 さらに自分を弁護してみるとするなら、少なくとも私を直接知る人たちは私のことをむしろ逆だという、ってまあそんなのいっか。
 この段落の言い訳はまあそれも自分の卑怯さとして記しておこう。


 なんというかamehareさんやドロ氏ーは上で書いた通り感性が鋭くて優しいので、たとえば私という個人を念頭に置いて怒りをぶつけるような真似はしないが、上に書いたようなプロパガンダに対して嫌悪や怒りを表明するという(それによって引き起こされる反感を引き受けるだけの)強さと正直さを持っている。同時に、ご自分をも同じ視点で振り返って自省されるという、読み手から見て受け入れやすい書き方をしてくださっている。おかげでこうして私などが自分の在り方を振り返ってみることができるので、本当にありがたいと思う。

 ある種ふっきれたようなところがあって、平気で書けるようになったが、たぶん場として適切ではない気はする。この平気さには何か割り切りがあってその割り切りが良いのか悪いのかわからないが、リンクとかをつける手間も省いて現時点での記録として。

 と、ここまで書いて今更新する前にたまたま

はてなダイアリーで書く時は、いろいろな前提をばっさり切り捨てて書いていることが多いです。他の事例をまったく考えてない訳ではないけど、そうやっていろいろ保険かけると文章長くなって大変なので、誤読上等な気分で書いております。

 という文章を読んだ。私もごく最近とみにそんな気分ではあるが、別の場を持った方がいいのかもしれない。加野瀬さんやHPOのひできさんみたいに。