自由と責任、反応の留保


 なんか徳保さんが早くも
http://deztec.jp/design/07/06/18_blog.html
 という記事で、
夏のひこうき雲 - 徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい
 に反応してくれているみたい。

 みたい、というのはちらっと
はてなブックマーク - 記事の改訂について
 を見ただけだから。
 ちらっと見た限りでは、その記事に対する批判や反論、応答としては
夏のひこうき雲 - 徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい
 に書いたことで足りている。以下のように忠告しておいたのに、あーあという感じ。まあ予想はしていたけど。


 ならば、どの要素/どの変数がどの限度を超えれば「極端」だと自分が考えているのか、それを徳保さんなりに頭の整理をしてみたらいかがですか。

 論破とか批判されるのが嫌なら、公開を前提とせずにご自分のパソコンの中で書いて練ってみるのもいいでしょう。表現や言い回しではなく、内容そのものを、です。

 アウトプットしないと損した気がするというようなことを前に書かれていましたが、「アウトプット」は何も「世間の目に触れさせること」とイコールではありません。

 自分のロジックを言語化し可視化して、自分から切り離して眺めれば、自分の考えを客観視することが少し容易になります。

 徳保さんに対して「それについてはここで既に答えてある」と自分の記事を何度も引用してみせることに飽きてきたこともあるし、また少なくとも2か月ぐらいはおきます。それまでに、何度も推敲されて妥当と思える内容に修正されると良いと思いますよ。2年近く前に
モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - ポジ・ネガと多数派・少数派の構図を重ね合わせることの危険性

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 「コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……(補遺)」を読ませていただいて
 で指摘されていたことも念頭に置いて。

 それまで、はてなブックマークでコメントをされる方々も、ちょっと記事と記事の書き手への評価を待ってあげてください。私はなんせ死刑廃止論者ですから*1、どこまでも人格の「断定」には慎重です。自由意思というものを信じているので。

 ただ、自由には責任が伴うんですよね。


いったん書いて公開した記事の内容については、書いた人が責任を負います。このことは、転載されてもされなくても、あとで削除・改変しても変わらないので、念のため

 自由ってつらいですよね。たとえばゲド戦記でテナー(アルハ)が解放されたあと直面したもの(参照:極東ブログ: [書評]こわれた腕環(ゲド戦記2)アーシュラ・K・ル=グウィン)。たとえば


自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。

*1:ここは微妙に笑いながらも感心するところ