自分との関係、鳥瞰という視点の可能性への意識


 夏のひこうき雲 - 私にはほぼ無関係だが、それにもかかわらずに、K.N.T. - スーダン・ダルフール危機からトラックバックを頂いていた。

 私の記事への言及はほぼなく、最初意図が理解できなかったのだが、延々とダルフール関連のニュースを引用したりリンクを貼ったりした後、何の説明もなく夏のひこうき雲 - 私にはほぼ無関係だが、それにもかかわらずへのリンクが記してあったので、記事中の

アフリカ危機は『私には関係ない.無関係』ですって???!!!

飛行機も翔ぶ現代、地球の裏側だって関係ありますよ。

日本は食物自給率が約40%なので毎日あなたはアフリカ産の食物を食べてるかもしれません っていうか食べてるし、工業製品でも中国製工業製品でも原材料がアフリカ産だったりします。

 という部分が私の記事への批判だと一応理解した上で、応答の記事を書こうと思う。


 そもそもknt68さんは私の記事の主張をまったく正反対のものとして把握されているようだ。
 knt68さんは私が「無関係だから、関与する必要がない」と主張していると思ったのだろう。だから大量の関連のリンクを貼り、必要性をアピールしたのだろう。
 しかし、私はタイトルからして、「私にはほぼ無関係だが、それにもかかわらず」と書いている。ほぼ無関係であるにもかかわらず、関与する必要がある、ということを一貫して主張している。このことは文中にも

この私の記事で少しでも読者がダルフールの事態に関心を持ってくだされば、私としてはうれしく思います。関心を持ったあとどうなさるかは私が決めることではありませんし、そもそもこうすればいいという答えを持っていません。黙って心に留めておくのも、その人の置かれた状況によっては、最も適切な対処かもしれません。

 ただ、ひょっとしたらこれまで関心を持った人たちが行ってきた試みがご参考になるかもしれません。日本語ではスーダンダルフール危機情報wikiにある程度まとまっています。

 と書いたとおりだ。

 ダルフール危機への対処の必要性を訴える人に対して私はまず好意を抱く。だが、そのような基本的な部分で誤読をされるというのは、あまりにも「関係あり→行動する」「関係ない→行動しない」という考え方にとらわれてしまっているからではないだろうかと思う。内容的に結果として表現がきつくなってしまうので応答しないでおくことも考えたが、その方が失礼にあたるだろうし、わざわざトラックバックをくださっていることからも、私のものの見方を書いて改めてお伝えしておこうと考えた。


 なぜ私が「ほぼ無関係だが、それにもかかわらず」というタイトルを掲げそのような筋道によったかというと、〈自分との関係性という視点を通してしかものを考えないような思考様式〉の人に対しては、ダルフールの事態のことをいくら伝えても意味があまりないからだ。なぜなら、いくら窮状や悲惨さを知ったところで、その人にとって「自分」との関係は薄いから。
 だから、他の思考様式が存在することを以下に引用する部分で伝えようとした。そのためにいったん、〈自分との関係性という視点を通してしかものを考えない思考様式〉に寄り添った上で、その帰結するところのおかしさを明示し、違う考え方を提示した。以下わかりやすいように一部強調しておく。

 遠いアフリカで起こっていることなど私たちの日常生活とは関係がない。あと何万人が殺されても、あるいは助かっても、私の生活にはほとんど無関係なことだ。そんなひどいことを自分がしたことはないし、自分がこの先同じようなひどい目に遭うこともたぶんないだろう。と思う人が多いだろう。私も思う。日本を含めた国際社会がルワンダを見捨て、ダルフールを見捨てているのはまさにそれが理由だ。だからといって無理に卑近な例に引き寄せて考えることは、今回の一連の論争のように、無用な摩擦と大量の誤解を招く。

 問題があれば解決しなければならない。少なくとも改善しなければならない。そのために自分がすべきことはする。重大な問題であるにもかかわらず他の人が関心をあまり持っていない事柄に気づいたら、自分ができる範囲で関わる。単にそういうことだと思う。

 およそ問題に普遍性があるかどうかということは、「親近感を感じるかどうかにかかわらず、人類の一員として関与しなければならないこと」かどうかにかかっている。ジェノサイドという問題はまさにそれ。

 非難とか皮肉でなく事実として言うのだが、たとえばビンテージものの電子楽器の流通の保護のためには動いても、スーダン人数十万人の命のためには動かない人も多い。そのことからしても、世の中になにか普遍的な価値というものが存在すると考える人はあんまり日本ではいないのかもしれない。

 しかし少なくとも「国営ナンタラ通信」のknt68さんには伝わらなかったようだ。そこで改めて、〈自分との関係性という視点を通してしかものを考えない思考様式〉の問題点を書きたいと思う。


 〈対象と自分との関係がどのようなものであるか〉を行動基準とすることを、「自己中心」という。

 たとえば、中国は石油権益の確保のためにスーダン政府に武器を供与しているといわれている。スーダン政府と自国とは、石油権益という資源の利用について強い利害関係にあるから、中国政府はスーダン政府に協力しようというわけだ。その際、スーダン国内のダルフール地区の(特定の人種の)住民たちは、中国の権益とあまり関係がない、だからその生命を侵害してもまったく問題ない。という理屈なのだろう(中国政府の政策決定者がそのことを自ら言語化しているかどうかは別として)。
 中国が石油権益の確保のためにスーダン政府に武器を供与しているということについては、現時点では事態が変わっているかもしれないし、ソースを挙げるのが面倒だが、事実だとすれば上のような理屈が成り立つ。

日本は食物自給率が約40%なので毎日あなたはアフリカ産の食物を食べてるかもしれません っていうか食べてるし、工業製品でも中国製工業製品でも原材料がアフリカ産だったりします。

 そのようなロジックを経由する限り、「いいえ、私はアフリカ産の食物を食べていない」「私はアフリカ産の原材料を用いた工業製品を使っていない」という確信を持っている人に対してはまったく通用しない。そもそも全く無関係ということはあり得ない(そのことは「ほぼ」無関係、というタイトルで最初から示している)から、関係の濃淡を基準とする限り、やはりアフリカ人は一番無視されることになる。

 ある人の命が大事かどうかと問うとき、その命の重さは、生産した食物や工業製品が決めるわけではない。人間の命が大事なのは、単に、それが人間の命であるからだ。私はこうも書いた。

私は被害に遭っているダルフール住民やチャド人とも、加害者とも、ほぼ無関係です。せいぜい同時代に生きている人間同士という程度の関係しかありません。

 ですが、それにもかかわらず私はコミットせざるを得ません。それは、「人間は誰であっても、その命や身体には高い価値がある」という最低限の価値観*を持っているからです。つまり「人間の生命・身体というのは普遍的な価値を持っている」と考えているからです。その普遍的な価値があまりにもあっさりと、あまりにも重大な侵害を受け続けている事件であるからこそ、私は問題が普遍的な意味を帯びていると考えるのです。

 事態の有するこの普遍的な問題点においてのみ、彼らと「同時代に生きている人間同士である」という関係が、私にとって決定的な意味を持ちます。その点においてのみ、彼らの生命・身体があまりにも軽んじられているという事態について私は責任を負っています。

 人間の命の重要さが、自分の食物や利用する工業製品にかかっているという考え方をするなら、石油権益がかかっている中国が武器供与をしてジェノサイドを促進したことをなんら非難できなくなる。


 〈自分との関係性という視点を通してしかものを考えないような思考様式〉をとる限り、自分と対象が一切無関係ということは通常ないから、〈関係が薄いか濃いか〉あるいは〈「どのような」関係か〉ということが基準になってしまう。自分を中心に置き、自分との距離や、自分との関係が友好的か敵対的かといったことで色分けするという発想に対しては警戒すべきだと思う。

 ではどのような発想をとるべきか、というと、普遍的な価値観がありえるという発想だろう。

 普遍性とはたとえば、どんな三角形であっても内角の和は180度であるということです。もちろん非ユークリッド空間においては成り立ちませんが、私たちはユークリッド空間に生きています……とここでユークリッド空間という喩えで表現しているのは「人間は誰であっても、その命や身体には高い価値がある」という最低限の価値観が共有されている現代の世界のことです。その価値が侵害されたときには、侵害の態様と規模と性質に応じて、他のプレイヤーが介入しなければなりません。(国家や国際連合は何よりもまずそのための装置です。不十分なのでNGOもあります。)

 この喩えとの関係でいえば、「曇りガラスのせいか遠近法のせいで歪んでかすかにしか見えないけど、あれも当然三角形だよね」と確認することが必要だと思います。スーダン人もチャド人も人間だということを確認することです。別に日本人に置き換える必要はありません。正三角形も、二等辺三角形も、およそ三角形であることには変わりありません。手元にある三角定規を使わなくても、二等辺三角形という概念は想像できます。実際に目で見なくても、その内角の和は180度であると考えることはできます。私たちは既に「三角形」という普遍的な概念を共有しているはずです。そして「人間」という普遍的な概念についても。

 ならば「人間という普遍的な概念から、スーダン人やチャド人を除いていいの?いいわけないよね」という点を確認するだけで足ります。

 わかりやすいように今回部分的に強調した。

 少なくとも、自分と対象の関係を固定されたものとしてみるような宿命論的な発想はとるべきではない。関係というのは固定されたものではなく、自分と相手が、互いの不断の選択によって決めていくものだからだ(他の要素もあるが散漫になるのでここでは書かない)。


 私の記事へのトラックバック記事中、たくさんのリンクが紹介されていた。以前自分で読んだことがあるものもあるし、読んでいないものもある。いずれの引用も、K.N.T. - スーダン・ダルフール危機での紹介のしかたから判断する限り、私に対する批判としてはまったく的外れだと思う。たとえば一番最後に紹介されていたものについて。

★葡萄畑で月を頼りに

http://d.hatena.ne.jp/cameracamera/20060328/p1

「忘れないでおこう。犠牲者を最も苦しめるのは圧政者の残虐性ではなく、傍観者の沈黙である。」そして今、弁解不能なのは、われわれの沈黙なのである。

 傍観者の沈黙こそが犠牲者を苦しめるということは、昔から知っている。かといって沈黙しているように見える人を断罪したくはないが、私自身はこの「夏のひこうき雲」や「浮雲」でずっとダルフール危機について言及している。

 やや話が逸れるが、付け加えるなら、なぜ傍観者の沈黙が犠牲者を苦しめるか。それは、(1)通用すべき価値観が確保されないことに対する不条理感と、(2)(自分がこのような犠牲になっている事態を他の人は肯んじるのか)という無力感・無価値感だ。ここで通用すべき価値観というのは、私の言い方をすれば「普遍的な価値観」だ。
 (1)すべての価値はその価値に応じて尊重される、すべての行動はそれにふさわしい報いを受ける、そのようなフェアな世界を望んでいるから、そうでない扱いをされることに不条理感を感じるのであって、犠牲者を苦しめるのは、(2)自分と関係がある人が少ない・助けてくれないという無力感・無価値感だけではないだろう。


 ほか、

 で十分すぎるほど書いた。