「あなたは、自分と関係が薄い人のためにも行動しますか」
gachapinfanのスクラップブック [gov] 関東大震災の虐殺の話とダルフールのジェノサイドの話を読んで以下の記事を書きました。
今回は前回の記事にいただいたコメントへのお返事を書きます。いただいたコメントは以下のとおりです。
# gachapinfan 『長文の応答、大変ありがとうございます。拝読していて、swan_slabさん、deadletterさん、pavlushaさんの間でされていた「ミクロとマクロ」の問題にも通じるところがあるかもしれないと思いました。
> 実態を知ってもらえばそれで足りるし、足りないとすればそれは別の部分に問題があると考えています。別の部分とは、問題の普遍性についての認識です。
今回、町山さんへの支持者たちが言っていたのは、この「普遍性」にかかわる点だと私は考えています。普遍性を感じ取るというのは、結局「自分に関係のないものとは考えない」ということだと思うのですが、その点で日本の事例を持ち出して普遍性を主張するのは最初のステップ(のひとつのあり方)として有意義だろうし、汎用的でもあろうと私は考えています。それによってスーダンのextraordinaryな性格が希釈されたとしても、他のメディアでダルフールの実態を知るという次のステップが確保されていれば問題ないだろうと思います。ただし、ここで問題になるのは「次のステップ」が用意されているかどうかで、その点でパンフレットは全体としてもダルフールに触れておらず、その点では問題であろうし、それに加えて、日本語のネット上においてダルフール問題を扱う有志がそれほどいないというのは何とも問題だと思います。というか、今回の一番の問題はそこですよね・・・。』# gachapinfan 『つまり、あのパンフレットを好意的に読めば、「ルワンダ→ダルフール」ではなく、「ルワンダ→あなた(→ダルフール)」という経路になると思います。
> 「自分たちだって昔ひどいことしたじゃないか」と曇りガラスの内側に問題を移動させること
これはちょっと不正確な表現だと思います。町山さんの問いは「ポールさんのような状況に置かれたとき、ポールさんのように行動できるか」ということです。べつに「自分たち」が「ひどいこと」をしたと主張しているわけではありません。
うーん、そうですね。映画について言えば、映画に逃避すること自体現実を見ていないのではないか、という批判がありうると思います。現実への働きかけにあたってどれくらい「迂回」が許されるのか、というのはむずかしいところですね。私の判断としては、コミットメントを一時的なものとしないためには、種々の「迂回」が欠かせないと考えています。』# gachapinfan 『だらだらすいません。ついつい自分の言いたいことばかり書いてしまいましたが(苦笑)、summercontrailさんの問題意識はわかるつもりです。虐殺の最中に欧米の指導者たちがホロコースト式典で「ネバー・アゲイン」と言うようなものだ、という問題意識について。
http://diary.yuco.net/20060223.html』
以下、とくにciteで引用元を指定していないものは上記のgachapinfanさんコメントの引用です。
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普遍性を感じ取るというのは、結局「自分に関係のないものとは考えない」ということだと思うのですが、その点で日本の事例を持ち出して普遍性を主張するのは最初のステップ(のひとつのあり方)として有意義だろうし
現時点でgachapinfanさんと私の考え方の最大の違いは、おそらくそこだろうと思います。
普遍性を感じ取るというのは、結局「自分に関係のないものとは考えない」ということだと思うのですが
私はそうは思いません。私は被害に遭っているダルフール住民やチャド人とも、加害者とも、ほぼ無関係です。せいぜい同時代に生きている人間同士という程度の関係しかありません。
ですが、それにもかかわらず私はコミットせざるを得ません。それは、「人間は誰であっても、その命や身体には高い価値がある」という最低限の価値観
を持っているからです。つまり「人間の生命・身体というのは普遍的な価値を持っている」と考えているからです。その普遍的な価値があまりにもあっさりと、あまりにも重大な侵害を受け続けている事件であるからこそ、私は問題が普遍的な意味を帯びていると考えるのです。
事態の有するこの普遍的な問題点においてのみ、彼らと「同時代に生きている人間同士である」という関係が、私にとって決定的な意味を持ちます。その点においてのみ、彼らの生命・身体があまりにも軽んじられているという事態について私は責任を負っています。
もし私が以上のように考えないのであれば、私がコミットする理由はまったくありません。じっさい私はほぼ無関係だからです*1。
gachapinfanさんは
日本語のネット上においてダルフール問題を扱う有志がそれほどいないというのは何とも問題だと思います。というか、今回の一番の問題はそこですよね・・・
と書かれていますが、同感です。なぜ「それほどいない」のかというと、問題の「普遍性」に触れた文章は、日本語では単に情緒的な表現や感傷の発露としてしか読み手に対してほとんど機能しないからでしょう。そもそも普遍的な価値が存在するという価値観自体に反発を覚えるのかもしれません。
その点で日本の事例を持ち出して普遍性を主張するのは最初のステップ(のひとつのあり方)として有意義だろうし
「誰であっても」というときに具体的な過去の日本の事例を持ち出すのは、結果として提示された身近な問題に目を向けさせるだけで、曇りガラスの向こう側の現実の問題を放置することにもつながりかねません
。
じっさい、今回議論の方向がそうなってしまっていませんでしたか(私とgachapinfanさんの間の議論ではなく)。問題の普遍性よりも、個別の問題の、しかも過去の問題の具体的詳細やその比較検討に目が奪われてしまったように思えます。
もちろん、政策的対応においては「genocideとmassacre」の区分をはじめとするいくつかのチェックリストも重要になるわけですが、それは個別の政策手段の議論に付随するかたちで論じられなければ意味がない――あるいは、「genocideとmassacre」の区分の自己目的化によって議論が阻害されることさえある――というべきでしょう
とgachapinfanさんはおっしゃっていますが、それは議論の焦点が過去の問題の具体的詳細や比較検討に流れてしまった以上、必然的なものです。
議論にgenocideという概念についての話題を導入する発端となったのは私です。これは「虐殺」という用語を使ってfinalventさんと他の方たちとで別の事態を想定しているように思えたので、そのことで議論が阻害されるのを防ぐためコメントしたものです。
genocideかmassacreかというのはgachapinfanさんのおっしゃる通り、政策的対応や、個別の政策手段を考える上で意味があります。そして私は政策的対応や個別の政策手段といった手段をプラグマティックに考えることこそが重要だと考えています*2。大切なのは「今」「自分が」「何を」するか
と書いたのも問題に対する有効性という観点からです*3。
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>「自分たちだって昔ひどいことしたじゃないか」と曇りガラスの内側に問題を移動させること
>これはちょっと不正確な表現だと思います。町山さんの問いは「ポールさんのような状況に置かれたとき、ポールさんのように行動できるか」ということです。べつに「自分たち」が「ひどいこと」をしたと主張しているわけではありません。
そうでしょうか。あの映画のチラシの最後の一文が、「自分たち」日本人に対して、日本人が日本国内で加害者となった、「ひどいことをした」過去の歴史的事件を指摘していることには変わりありません。
町山さんの問いは「ポールさんのような状況に置かれたとき、ポールさんのように行動できるか」ということです。
ブログで早い段階で書かれた町山さんの意図として、正確には
と書かれていますね。それは(今は私やあなたはポールさんのような状況には置かれていないから、今は行動の必要がないけど)ということを前提としているように思えます。その前提こそが不当です。ある意味で、今も私たちはポールさんのように、理不尽にむごく傷つけられ殺されていく大勢の人たちのまっただ中で生活しているのです。問題の普遍性が、地理的な距離や人種・国籍の違いを無意味にしています。私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めているんだということを自覚し、ルワンダみたいな状況になった時、ポールさんのように行動できる人間にならなければ。
自分がどのような人間かだとかどのような人間にならなければいけないかという点よりも、私は「今」「自分は」「何を」すべきかに着目します。自分や他人の内面の奥底そのものを人間が評価の対象とするという傲慢に陥らないためです*4。
何事もなかったようにディナーを食べる人たちも、「(自分の周りが)ルワンダみたいな状況になった時には、ポールさんのように行動できる人間にならなければ」ぐらいは思っていたでしょう。そのために悲壮な決意すら固めていたかもしれません。その決意は、ルワンダの人たちにはまったく無意味でした。映像を見た人にとってルワンダの人は「自分の周り」の出来事ではなかったからです。ポールが「これで世界の人々がこの映像を見て、何かしてくれますよね」と言うとホアキンは「この映像を見て、『恐ろしいね』と言って、何事もなかったようにディナーを食べるだけさ」と答える。
私たちはおそらく「ルワンダみたいな状況になった時には」ではなく、「ルワンダみたいな状況に置かれている人のために」何か行動しなければ、と考えなければいけないのではありませんか。
映画の主人公のモデルとなった人物ルセサバギナと主演俳優ドン・チードルが、連名でこう言っています。
また、町山さんはこう書かれています。映画「ホテル・ルワンダ」でもっとも衝撃的なのは、「これを見終わって、人々は、『まあなんてひどい』と言い、次に夕食に出かける」という部分でした。
『ホテル・ルワンダ』で最も感動的なシーンはこれだ。
ポールさんが、ついに国連軍から「君の家族だけ逃がしてやる」と言われる。
しかし、ポールさんはホテルに残ることを選ぶ。泣いて怒る妻子を先に逃がして。
それまでのポールさんはとにかく自分の家族を守ることだけに必死だった。家族愛なんて誰でも持っているものだ。しかし、家族を捨てて、他の人々のために残ると決心した時、彼は家族愛を超えた。だからあのシーンは感動的なのだ。
最も衝撃的な部分と
最も感動的なシーンがそうであるならば、その映画の問いは「ルワンダみたいな状況になった時には、ポールさんのように行動できる人間にならなければ」ではなく、たとえば次のように表現されるでしょう。
「あなたは、自分と関係が薄い人のためにも行動しますか」
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ただし、ここで問題になるのは「次のステップ」が用意されているかどうかで、その点でパンフレットは全体としてもダルフールに触れておらず、その点では問題であろうし
私は映画のパンフレットがダルフールに触れていないことが問題とまでは思いません。あえて何か問題があるとするならそれは、町山さんを含めて一連の議論に参加されている方々の大部分が、ルワンダと同様のことが現在進行形で起きているダルフールのことを知ってからも、ブログでことさらに(ダルフールへの対処の必要性に)触れることを避けていることでしょうね。これは
なっていないことの一つの証拠だと思います。「ルワンダ→あなた」で止まっています。
ただ既に書いたとおり黙って心に留めておくのも、その人の置かれた状況によっては、最も適切な対処かもしれません
。だからブログでことさらに触れないですませていることも問題とまでは思いません。
*1:逆に、同じ性質を持った現在の事態について私はダルフール以外にも(可能な範囲で)コミットしています。トリアージ的な問題はありますが。
*2:プラグマティズムとははてなダイアリーキーワードによれば観念の意味と真理性は、それを行動に移した結果の有効性いかんによって明らかにされるとする立場
です。なおプラグマティズム - Wikipedia
*3:ただしここでいう問題とは、「自分のちょっとした個人的な楽しみ、ユーモアといったささやかだがかけがえのないものを含むすべての価値へのニーズの中での、リソースの配分」という問題を含みます
*4:もっとも、言及の対象を限定していても、人格そのものの優劣を競う優越感ゲームと誤認されがちであることはモヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人の気持ちを考えろの段落「1」やモヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格/思考様式/言動、モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格を内心で否定しないために、意見に表立って反対するという技術で書きました