問題の普遍性ということに関する私の理解と、たとえばダルフール危機に対するモチベーションの要否について

  • そのコメント欄(とりあえず最新の2つを引用)

# gachapinfan 『さっそくレスいただきありがとうございます。
まず、「擁護論」と前出の書き込みについてなのですが、あれらはどちらかというと「アメリカ人などから関東大震災の虐殺について難詰されるというケース」を想定しています(これはたぶんあまりないとは思いますが、finalventさんの一連のエントリはそういったケースを想定しているのではないかと思って同様に想定しました)。また、たとえば関東大震災のことを知らない人に向かって「関東大震災の例を想起していただければわかるように、今の出来事は・・・」などと言っても滑稽である点については理解できるつもりです。
そのうえで、「今起こっていることに目を向ける」という本題に関してですが、「現に起こっていることについて知ることがまず先」というのはおっしゃるとおりだと思います。ただ、そういったことを知ろうとすること自体、自分にとっての身近さ――歴史の勉強による知的興味や映画による感傷的動機――といったものがあってはじめてそのモチベーションが確保されるのではないかということを考えています。
以上、だらだら書いてしまいましたが、summercontrailさんの問題意識をうまく理解できていないようでしたらすいません。』

# summercontrail 『gachapinfanさんこんばんは。私の漠然としたレスに再び丁寧なコメントを頂いたので、それを受けて考えているうちにもう少し考えが明確になってきました。少し長くなってしまったので記事として掲載します。』

 以上の経緯で、以下に掲載します。


 gachapinfanさんこんにちは。問題が重要なのでやや文体がぶっきらぼうになっていますが、悪意や敵意がないことは了解していただけているようで、そのことに感謝しつつ。


 gachapinfanさんの擁護論(つまり日本人が行ったことの弁明ですね)において想定されたケースについては、了解していたつもりですが、今回いただいたコメントを受けて少しだけ私の認識を書きます。「2.1」については、町山さんのパンフレットの結びの一文に対してその弊害を指摘する形で出てきたもので、主張として独立したものではないし、同胞たる日本人に向けられたものと私は解釈しています。(議論の過程で激しい人格非難も散見されるセンシティブな話題なので、できるだけ個別の事柄についての限定的な記述にとどめようとしている点はご了承ください。)


 「ただ何をすればよいか考えるためには過去を学ぶことも大切ですが、現に起こっていることについて知ることがまず先に来るのではないかと思います。」という私の文は、他の文との関係がはっきりしないとりとめもない感想でした。私の問題意識など、全体的にもう少し補足しますね。


 「自分にとっての身近さ――歴史の勉強による知的興味や映画による感傷的動機――といったもの」というのは、簡単に言えば、私はとくにいらないんじゃないかと思っています。何との関係でいらないかというと、(「今」「自分が」「何を」するかを考える上で、とくに「何を」すればよいかを考える上でという事柄の内部での話ですが)モチベーションを確保するためには、ということですね。

 思考の上でgachapinfanさんのコメントとの対立点をあえて明確にしてみるのですが、知的興味や感傷的動機にモチベーションを依存した行為というのは、その存立基盤が危うい気がします。飽きたらやめる、冷めたらやめる、ということにもなりかねません。今週のニューズウィークが「共感疲れ」という興味深い言葉を使っていました。追記:感傷的動機そのものはどちらの方向にも作用します。「自警」のための暴力のモチベーションとすらなりえます。冷静で公平な判断こそが重要です。

 そこに熱情は必要ない、といったら言いすぎでしょうか。そばで人が倒れたら救急車を呼ぶ、なかなか来なければ蘇生を試みる、自分で無理なら人を呼ぶ。その延長線上の事柄ではないかと。偉いとか頑張るとか可哀想とかではなく(長期化するに従ってそうした感覚も併発しうるでしょうけれど)、単にやる、ということです。


 強姦、集落への放火、殺人などの行為が、現在進行形で起こっていること。死者だけで少なくとも20万人以上といわれるほどの規模であること。その国の政府も、他国も、(物理的には)可能であるにもかかわらず必要な程度の介入をしていないこと。それだけ知れば、モチベーションとしては本来充分でしょう。強姦や殺人といった行為は、ディテールを映像で見せつけられなくても、痛みへの共感を呼びさまされる事柄だと思っています。

 もちろん実際にはそうはなっていません。痛みへの共感、それに伴う関心はあまり呼びさまされていません。それは単に上記のような事実が伝わっていない(メディアがあまり取り上げていない)ことも要因でしょうが、もう一つの大きな理由は、簡単にいえば「アフリカのことなんて自分には関係ない」という曇りガラスを設けてしまっているからです。
 必要なのは、「自分たちだって昔ひどいことしたじゃないか」と曇りガラスの内側に問題を移動させることではないと思います。それは結局、移動された結果として提示された身近な問題に目を向けさせるだけで、曇りガラスの向こう側の現実の問題を放置することにもつながりかねません。
 そうではなくて必要なのは、「ガラスの曇りの度合いが強すぎる」という点に目を向けさせることだと思っています。


 普遍性とはたとえば、どんな三角形であっても内角の和は180度であるということです。もちろん非ユークリッド空間においては成り立ちませんが、私たちはユークリッド空間に生きています……とここでユークリッド空間という喩えで表現しているのは「人間は誰であっても、その命や身体には高い価値がある」という最低限の価値観が共有されている現代の世界のことです。その価値が侵害されたときには、侵害の態様と規模と性質に応じて、他のプレイヤーが介入しなければなりません。(国家や国際連合は何よりもまずそのための装置です。不十分なのでNGOもあります。)

 この喩えとの関係でいえば、「曇りガラスのせいか遠近法のせいで歪んでかすかにしか見えないけど、あれも当然三角形だよね」と確認することが必要だと思います。スーダン人もチャド人も人間だということを確認することです。別に日本人に置き換える必要はありません。正三角形も、二等辺三角形も、およそ三角形であることには変わりありません。手元にある三角定規を使わなくても、二等辺三角形という概念は想像できます。実際に目で見なくても、その内角の和は180度であると考えることはできます。私たちは既に「三角形」という普遍的な概念を共有しているはずです。そして「人間」という普遍的な概念についても。
 ならば「人間という普遍的な概念から、スーダン人やチャド人を除いていいの?いいわけないよね」という点を確認するだけで足ります。どうもまずい喩えを連発してすみません。


(以上の話はじつはあんまり説得力を持たないというか、有効性を持たない気もします。たとえば、「人間という普遍的な概念から、スーダン人やチャド人を除いていいの?いいわけないよね」というのは、当たり前のことを確認しているにもかかわらず、日本語の文章としてひどく情緒的なニュアンスを持ってしまいます。その情緒性にはちょっとうんざりします。そしてその情緒性そのものがネックになっているのではないかと思います。結果としていわく偽善、いわく自己満足、そんなのはどうでもいいのにそこがクローズアップされがちになってしまうわけです。
 だからこそ、あえて情緒性を排除した方がプラグマティックに動けるのではないかという、そういう方向性の問題意識です。情緒性に乗っかった方が、たとえばホワイトバンドのようにおしゃれでかっこいいというイメージに訴えた方が一時的な動員力はあるのかもしれませんが……この点は難しいですね。)


 話を戻しますが、「そういったことを知ろうとすること自体、自分にとっての身近さ(中略)があってはじめて」というのは、中略部分を外せばたしかにおっしゃる通りです。ですが、そこでの「自分にとっての身近さ」というのは、「読んでいるブログがそのことについて言及していた」「知り合いが言ってた」「新聞やテレビで見た」ということで足りるのではないかと。モチベーションが確保されるためには。私は適切なソリューションを考えるだけの知識も能力もないことを自覚しているので、そのあたりでなら貢献できるかな程度に思っています。そのあたりとは、身近な人として言及することです。具体的には、前回の記事で書いた「関心を持つこと、関心を持っていることを表明すること、その2つを継続すること」ですが、「より多くの情報がより正確に伝達されることの手助け」もときどき背伸びして行っています。


 まとめると、現時点では、まず知ってもらうことが大切だという考えです。何をかというと、ダルフール危機の存在と実態について。実態を知ってもらえばそれで足りるし、足りないとすればそれは別の部分に問題があると考えています。別の部分とは、問題の普遍性についての認識です。


追記:この記事を、私がこのテーマについて書き始めるきっかけとなった[gov] 関東大震災の虐殺の話とダルフールのジェノサイドの話トラックバックします。