「罪を憎んで人を憎まず」ということの意味


 誤解も招くだろうけれど短く書きたい。


 社会で問題になった事件にしろ、数人だけが知っているようなひどく卑劣な事件にしろ、悪事は世間で多く起こっている。そうした悪事を思うたびに、以下の逸話のことを考える。

ヨハネ7:53−8:11姦淫の女

 あえて部分的な引用はしないでおくので、リンク先の各訳をそのままぜひ読んでみてください。


 自分に一点の曇りもないと思いこんで他人を断罪することの不当さを、イエスはよく知っていた。
 それだけでなく、その不当さを糾弾することのむなしさも、イエスはよく知っていた、それでも愛ゆえにしばしば激しく怒ったけれど。

 誰かが「罪」ゆえに「人」を断罪しているとき、断罪している者をたしなめるのは難しい。「自分という人間の存在全体が同じように断罪されている」という誤解と反発を招くからだ。じっさい、そういう裏返しの断罪によって優越感にひたろうとする人もいる。いわゆるルサンチマンか。しかし、それも赦される。

 もうひとつ。「行きなさい、私もあなたを罰しない」という言葉は、直後の「もう罪を犯すな」という言葉とセットで受け止める必要がある。罪は罪、そのことは変わらない、それでも、ということ。


 あんまりまとまらない。まとまる話でもないんだろう。どこかを強調すればわかりやすくはなるが、そのわかりやすさはたぶん間違っていると思う。ただはしょりすぎな気はする。

 これからもずっとこのテーマを考えていくと思う。あれこれ考えをもて遊ぶということでなく、〈今、自分はどうするべきか〉と悩んでいくのだろう。しんどいけれど必要なことだと思っている。


 + C amp 4 + - がんばれホテルマンから知ったlivedoor ニュース - 「この女に石を投げるな」、東横インの小さな親切。を読んで、この話題を書いてみたいと思った。本来は「石を投げるな」ではないし、聖書の引用箇所と記者の体験した状況とのずれはかなり重大なのだが、そこを書く余裕はない。

追記:

# swan_slab 『注:私は「記事を書いた人は東横インが起こした事件と、従業員の気配りや東横インの就労に対する考え方を天秤にかけようとしている」とは解釈できなかったし、「東横インが提出した書類を偽装したという事実を社会的に批判してはならない」という主張を強化するするためにパリサイ人のエピソードを用いたとも解釈しなかった。パリサイ人の話の文脈と記者の主張とにズレがあることはわかっていた。だけれど、私はso what?といいたいだけです。

記者が聖書を正しく解釈しないことに対する違和感も重大なものとは感じることができなかった。』 (2006/02/01 08:03)

 これは煩悩是道場 - 部分と全体


この記事を書いた人は東横インが起こした事件と、従業員の気配りや東横インの就労に対する考え方を天秤にかけようとしている

 も念頭に置かれているのだろうけど、後半は私がトラックバックをした記事への注かもしれません。


パリサイ人の話の文脈と記者の主張とにズレがあることはわかっていた。だけれど、私はso what?といいたいだけです。

記者が聖書を正しく解釈しないことに対する違和感も重大なものとは感じることができなかった。

本来は「石を投げるな」ではないし、聖書の引用箇所と記者の体験した状況とのずれはかなり重大なのだが、そこを書く余裕はない。

 パリサイ人の話の文脈と記者の主張とにずれがあることについては、私は何か問題にすべきこととは思っていません(問題にすべきと思えば、そう書きます)。私がこの記事で逡巡しているのは、記者を非難するかどうかという点を巡ってではなく、悪を糾弾することそのものが悪である、と声高に言うことがさらに悪になる、という構造そのものについてメタな言及をしているからです。その言及の限界を自覚しているからです。

 それから、記者が聖書を正しく解釈しないというような点についての違和感は私にとっても重大ではありません。というか、記者による聖書の解釈はとくに問題にしていません(この点について誤解があるように思いますが)。ただ聖書の引用箇所(で描かれている状況)と記者の体験した状況とのずれはかなり重大だと思います。

 聖書の引用箇所は、現行犯で、(当時の道徳観念や法秩序からすれば)間違いなく悪いことと評価されることを行った本人がやり玉に挙がっている。つまり、石を投げられても仕方ない、おそらく投石自体が正当な法の執行と評価されうる状況です。

 それに対して記者の体験した状況は、ある意味では合理的な判断に基づいて脱法的な工事を行った事件に関するものであり、しかも責めを受けるかどうかが問題とされているのは、その工事の判断を下した本人ではありません。個人責任の問題の範疇にとどまるような事柄に思えます。

 聖書の引用箇所は、疑いなく悪いことをした本人がそれでも赦されるべきなのか、という究極的な命題であるのに対し、記者の体験した状況は、〈まじめに仕事をしている人まで、世間から不当なレッテルによって大変な思いをさせられている〉という誰もが納得し同情するエピソードです。この違いは大きいと思います。


 ただ、この件に関する記者の感性には共感します。その途中の論理展開に間違いがあるからといって、その間違いを具体的に指摘する必要はあまり感じませんでした。だから私にとっても違和感は重大なものではありません。もし重大な違和感を感じていたら、その点をメインに書いていたでしょう。


 繰り返しになりますが、私がこの記事で書いているのは、記者を非難するかどうかという点を巡ってではありません。また何か具体的なケースを念頭に置いて誰かを曖昧に非難しているわけでもありません。悪を糾弾することそのものが悪である、と声高に言うことがさらに悪になる、という構造そのものについて、難しいものだという感慨めいた自分の中のつぶやきを文にしてみたものです。私自身もその構造に絡め取られています。

 + C amp 4 + - がんばれホテルマンを挙げたのは、このことに触れるきっかけを頂いたからであって他意はありません。上記の聖書のエピソードはずっと私の問題意識として念頭にあるものです。蛇足になりますが、たとえば姉歯建築士の事件もそうです(さらにやぶ蛇になるかもしれませんが、補足前にも触れたとおり、「自分はそんなに悪いことをしたとは思っていない」と突っ張る人はまた別です。そういう人はむしろ最後まで残って投石しようとする側の人でしょう)。


 誤解による行き違いは避けたいと考えているので、どちらかといえばこういう補足をする方だと思うのですが、こうした補足からある種の動揺や屈折を敏感にかぎとって嫌悪する人もいるようで、その分徒労感は以前からあります。その徒労感が、補足前の記事のような文に反映しているのだろうと思います。