「人間として失格」か


 水野監督は「人間として失格で、言語道断。選手を信頼して一緒に困難に取り組んでいたのに、スポーツ全体への裏切りだ」と語気を強めた。


 監督さんを責める気はない。立場としてはそう言わざるを得ないし、そのようにつぶやく気持ちはよくわかる。
 が、そういうことをするのが人間だと思う。合格も失格もない。ありのままに見れば、そういう悪を内に秘めているというか、たやすく悪に負けるのが人間だと思う。人間は「状況」次第では言語道断なことをたやすくやってのける。もちろん、それでいいとは全く思わない。


 「スポーツ全体への裏切り」について。いや、スポーツってそういう面はあると思う。

「ホンネ」の部分、一般的に卑しいとされる(あるいは悪いとすら評価される)原始的な衝動をお互いに見せ合うことで相互理解をした気になるというような面があるのでしょうね。

 で、なぜ体育会系の人にそういう面が顕著かというと、かなり乱暴な推測ですが激しい身体運動を通して暴力的な面・原始的な衝動が高まってくるのではないかと。急いで付け加えておきますが、これはそこまで乱暴な推測というわけでもなく、〈アメリカの大学のフットボール(アメフト)の選手たちは大会期間を通じてどんどん(一般的な他人への)敵意が高まっていく、つまり運動は発散によって必ずしも人を温厚にさせるわけではなく、運動の性質と量によっては暴力性をむしろ高める〉というような内容の資料を読んだことがあるんですよ。ちょっと正確ではないので気になる人は検索してみてください。(さらに付け加えると、兵士が訓練や実戦によって自ら望まないほどに粗暴になっていく傾向と少し似ているかも)

 裏切りというのもちょっと違う気がする、うまく言葉にならないが投げやりに書いてみると、ここの「裏切り」という表現は自分が傷つけられたという怒りと悲しみから来るものであって、被害者の受けたダメージへの思いからではない。
 自分の怒りと悲しみを理解して欲しいという過剰表現が「(自分への、でなく)「スポーツへの」裏切り、という言葉。


 スポーツ界に限らず、表沙汰になっていないだけでこの手の事件はたくさんあると思う。
 表沙汰になった事件の加害者とどうつきあっていくか。これは困難な問題、ただ、いかさま仏教的に相手を心の内で裁いてしまえばまっ・たく・簡・単。相手を人間と思わず、侮蔑とともに関係を切ってしまえばいい。それこそが強姦ともつながる罪なんだけど。

 あと被害者のケアはもちろん大切だが、よくある視線はむしろ有害。