バットマン・ビギンズ


 さっきまでバットマン・ビギンズを観てた。


バットマン ビギンズ [DVD]

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 私の中での期待が大きかったので少しがっかりしたけど、かといってそんなにダメダメではないと思う。


 ブルース・ウェインはあの筋では、ヒマラヤでの生活や思想をどう消化しているのか正直言ってわからない。そこが不満。この映画での悪者たち、リーグ・オブ・ザ・シャドウは「悪」に対して壮大な視野を持ち緻密な対処を行っている。それは根本的に間違っているのだけれど、じゃあ主人公はそれに対してどう答えるのか。自分はどのような世界観を持つのか、というところが今ひとつ曖昧だったように思う。

 一つには、人殺しをした人を自分は殺さない、自分は処刑人ではない、という行動をもって答えた。だけど脇役は殺す(というか知ったことではない)みたいな中途半端さがある。
 人の家の屋根を壊しまくったりというのも、後で自分の中のモンスター性とかいって納得のいくような説明をしていたけど、なんか今ひとつ。
 復讐こそ正義だと思っているのか、それとも変わったのか、中盤からはよくわからなかった。
 スパイダーマンほどの葛藤はなかった。憎らしい敵たちは登場したが、悪を「正しく」憎むということについてあまり深い洞察のようなものはなかった。もっとも映画にそんなものを求めるのが端から間違っているのかもしれない。


 ただ、ブルースの父はよかった。私などはむしろあっちに共感する。護身術の備えはしておくべきだろうけど、強盗に遭って理不尽に殺されながらも「これでいいんだ」「恐れるな」という笑顔で死んでいったあの父はほとんど人間離れしている(だが、そういう人もときどき実際にいる)。
 落ちるのは、這い上がるすべを学ぶためだ、と映画の中で何度か繰り返されるメッセージにも同感。

 日本では聖書の内容を背景知識として知っている人は少ないでしょうけど、悪人ばかりではないからその町を滅ぼさないでくれ、というのはソドムとゴモラの話ですね。リーグ・オブ・ザ・シャドウを神にたとえるのはちょっと倒錯していると思った。むしろ力と遠大な計画でもってある都市・文明までをも裁こうという、その思い上がりこそが裁かれるのだろう。

 なにか書き忘れている気もするけど、そんな感じ。あ、最後に「バットマン・ビギンズ」と浮かび上がる趣向はよかった。映画の内容はすべて序曲にすぎない、ここから本当の「バットマン」が始まる、ということだろう。


追記

 恐れ、恐怖の扱い方について。この作品では、自分の中の恐れをコントロールするために自分が他人から恐怖される存在になれ、他人をコントロールするには他人の恐怖をコントロールしろ、というようなメッセージが前半出てくる。ブルース・ウェインが「バットマン」になったのもそれが理由らしい。

 あほか。

 恐怖を見つめるのはいい。だけど他人を恐怖で支配してコントロールすることを称揚することに根本的な疑問を感じる。そもそも他人をコントロールすることを目的とするのが間違い。

 もちろんそれはリーグ・オブ・ザ・シャドウの考え方であってブルース・ウェイン本人の考えではない、という反論は容易に想定できる、が、ブルース・ウェインはその考え方に従った行動をとっていた。

 では恐怖という感情をどう扱うべきかというと、肉体を殺しても魂をどうにもできない者を恐れるな、恐れるべきはただ神のみ、ということでいいと思う。*1

 もっとも「恐れるべきはただ神のみ」という思考形態は、日本では空気やお上に従わない異質な存在として凄まじい弾圧を受ける、隆慶一郎の作品などを読むとその辺がうまく描写されている。バットマンのレビューなのに話それまくり。

*1:付け足しで書くにはあまりに重大なことだが、洗脳などで人間の「心」は容易に支配できる。「心」と「体」にのみ着目する二元論は「バランスが大事だよね」という無意味な結論に流れるだけなので、そこに「魂」という概念を導入することは確実に必要だ。