仕事からくる誇り、誇りを得られないように思える仕事、仕事以外から得られる誇り
このテーマについて私がなるほどと共感した記事のリンク集のようなものです。抜粋はごく一部なので、ぜひそれぞれリンク先をお読みください。
まあ、仕事は仕事と割り切って、誇りなぞ無理に持とうとせず、もらうもんだけもらっとく、という態度もある。そっちのほうがグリーンのビラビラにはふさわしいように思う。
自分の仕事に誇りを持つ事が難しい時代ではある。自分がやっている事は本当に必要な事なのか。不要な事、それどころか社会悪に加担している等と思ってしまうのが今の時代だ。
いわゆる「自分探し」などにも感じることだが、自分を支える何かを見つけようとしなくとも、日常生活の中のささやかな喜びや楽しみを大事にしつつひょうひょうと生きていけばそれで充分よいのではないかと思う。
まあ、無理に仕事に「誇り」を持とうとするよりも、「面白さ」か「やり過ごす」かどっちかで行ったほうが、うまく行くような気もする。
他の方の記事を3つ引き、「消費での自己実現」に限界があること、「歯車の矜持」、「必要とされることと続けること」について。このエントリーを読んで今回ふっと思いたちました。
社会の一員として社会を回している、歯車の自分を誉めてあげてもいいんじゃないんだろうか。
そして少しずれるようだけど、仕事と人生、また自分と共同体との関わりの持ち方とでも呼ぶべきようなテーマとして
しかし、自分の経験からしても、たいていの人は、四五歳ともなれば、仕事に心躍ることはほとんどないと言えるように思う。もちろん、そうでない人もいるだろうが、たぶん、大半の人は内心、自分はそれほど成功者ではないと思っている。
(中略)
私はここでドラッカーがポイントとしているのは、別の形態の成功ではなく、絆(きずな)ということだと理解している。彼は日本にその期待を抱くという文脈でこう語る。そして、こうした第二の人生というのは、助走が必要だと彼は説く。
いかなる国といえども、社会が真に機能するには、絆が不可欠だからである。
しかし、第二の人生をもつには、一つだけ条件がある。本格的に踏み切るにははるか前から、助走していなければならない。