V.フランクル『苦悩の存在論―ニヒリズムの根本問題』
映画「ガタカ」を観終わって、この本のことを思い出しました。
- 作者: V.フランクル,真行寺功
- 出版社/メーカー: 新泉社
- 発売日: 1998/01/20
- メディア: 単行本
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この本はけして読みやすいとはいえませんが、初めの方の以下のあたり(旧版8頁から)だけでも、現代においてもすぐれて重要なある視点を示してくれます。
現実がどのような(現実の)の他の残りの部分に還元されるかに応じて、すなわち、なにに現実が還元されるかに応じて、おもに三つのニヒリズムの変種が区別できる。つまり、生理的現実に還元されると、生理学主義といった形のニヒリズムが現れ、心的現実に還元されると、心理学主義の仮装のもとに、また社会的現実に還元されると、社会学主義の仮装のもとに立ち現われる。
いずれにしてもどの場合にも現実は、それが生理学的事実であれ、心理学的事実であれ、または社会学的事実であれ、単なる結果・所産に縮小してしまう。
なお、著者は生理学・心理学・社会学そのものについて批判しているわけではありません。以下、旧版9頁。
生理学・心理学・社会学は普遍化によってはじめて不当なものとなる。したがってそれらは、すべてを還元すると同時に、また一つの例外をのぞいて、すべてを相対化する。その例外とはみずからを絶対化することである。
引用文中の強調部分は、原文で傍点が付されている箇所です。
そして10頁以下、生理学主義が人間をいわば条件反射ないし無条件反射によって支配されている装置、あるいは自動機械
として認識し、心理学主義が人間をいわば衝動の束
の合力によって生じる力の平行四辺形
として扱い、社会学主義が人間を社会的権力のボール
と考えることが述べられています。
著者は続けて、こうしたニヒリズムからは人間存在は意味を持たず、人間はあるときは内部の針金で、あるときは外からの針金で動かされる人形芝居の人形のように見えるにちがいない
と主張します。
こうした指摘は、いわゆる「脳」学や、遺伝子がすべてを決定し生物は遺伝子の乗り物にすぎないとする説が興隆を極めている現在、たいへん重要な、心にとめておくべき観点だと感じました。
引用した部分は第一章の冒頭部分であってこの本のほんの一部にすぎませんが、ニヒリズムの巧妙な働きかけが虚無感からくる刹那主義となって社会を覆いつつある今日、引用部分だけでもここで紹介する意味は大きいと思います。
私は思うのですが、私たちは生きており、この生には価値があることを直感的に了解している。その生の価値をニヒリズムによる相対化から守らなければならない。そしてその相対化の危険は自分の内にある、と感じます。
ナチスのユダヤ人強制収容所に収容されており人間の醜さや悲惨さを目の当たりにしていたV・フランクルが、それでも希望と生きる意味、生の豊かさをアカデミックな形できちんと主張しているという事実は、それだけでも人間への希望を持つ力の支えになるでしょう。
なかなかこの話を実際に必要としている人に届くように書けないのだけれど、ひとまず書いておきます。