isaさんの文章あれこれ

 なんか別件で調べていておもしろいサイトに出会う。

『ハウルの動く城』が駄作中の駄作だったので『千と千尋の神隠し』を懐かしく思い出して再録する『ハリ・ポタ』との比較論

 ハウルが駄作だったかどうかは私は知らないがこの記事はかなり面白かった。

 結局のところ、日本では、共同体の成立に当たって、ローカルな「神々」がグローバルな「仏」にあらかじめ帰依していたという、驚くべきアクロバティックな論理展開を採用したため、「神々」の呪いも、無意識のおどろおどろしさも、根本的に理解不能なのだ。日本人にとってのローカルとグローバルの闘いのイメージなど、せいぜい悪霊や妖怪を祓う僧の姿程度のもので、ハリー・ポッターの通う魔法学校になぜ巨大で凶暴な三首犬がいたり、女子トイレを襲う気味の悪い巨人がいたり、本当の望みを写し出す不気味な鏡があったり、裏に化け物の住む森があったりするのかサッパリ解らない。

 むしろ現代の日本人にとって「神々」は郷愁を持って取り戻すべき何ものかである。

つまり日本人にとっては「言葉」以前の自他不可分の暗黙の理解こそが理想であり、「言葉」は理解の挫折の始まりとしてあるわけだ。これは、『ハリー・ポッター』が、結局は悪い魔法使いの口を割らす(「言葉」の世界に引き入れる)ための冒険であったのとは全く対照的である。


 あと、以下の記事群も。

 ウルトラマン(やウルトラセブン)と仮面ライダーの物語・世界観における対照的な構造を論じている。
 神と自然、人間、ことば、まつりごと、科学を含めた呪術、組織と個人、善と悪、孤独、倫理といったものが、
ショッカーと違って基本的に対話不可能な土着の荒ぶる神々としての怪獣、ウルトラ警備隊の無力と神(あるいは菩薩や大日如来にたとえられる)ウルトラマンの対比など具体的なモチーフに即して語られている。

 ちょっとだけ引用してみると


 先にライダーを法然に例えたが、堕落した「科学特捜隊」たる「ショッカー」を抜けだして〈迫害〉を受けるライダーと、〈チャーチ〉であった比叡山を出て〈迫害〉を受ける法然とは、その〈組織〉との向き合い方において瓜二つなのである。どちらも、自らの〈倫理〉に従って〈組織〉から出、自らの〈倫理〉ゆえに〈組織〉から〈迫害〉を受ける。

 なぞらえというか、こういう読み解きはたいへんおもしろいなあ。エヴァンゲリオン庵野秀明に少し触れることで一連の記事の冒頭の話に戻り、そこで終わっている。

 http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/というアドレスからすると、これは以前読んだことがあるあのisaさんだ。タイトルとデザインが変わったのかもしれない。