言葉にすること、しないこと、できないこと

 rucciさんやyukattiさんのところで興味深い話題が続いている。

 なんか別に有益な情報とかないのと、なのにレスポンスを強いるような形は嫌だなというのと、あと最近小心になっているので(笑)トラックバックにならないためにリンクはしないでおきます。

 この「言葉にしない・できない」というような話題に関して昨夜携帯で少し書いていたんだけど、途中でやめてました。途中までの内容は以下。

 なんか孤独ということについて考えている。

 あえて言葉に表す強さというのもあれば、あえて言わない強さもある。言わずにはいられない弱さというのもあるだろう。

 考えずに言う無邪気さもある。見せるために言うずるさもあるだろう。

 自分がそのテーマについて、その切り口で、ものを言うということがどのような意味を持つのかが意識される

 で、最後の中途半端な文は何を言いたかったかというと、「自分の言動が(社会的に)どのような意味を持つのか、それは自分の意図とはまた別の次元で受けとめられることを意識しておきたい」みたいな内容でした。

 なぜ途中でやめていたかというと、そんなことを書いて読み手が何か表現することへの抑圧となってはよくないなと思ったから。ただでさえ、日本で何か(気軽なことでも)発言することは、「かっこわるい」「幼稚」「主義主張を持っている人ってこわい」というような目で見られるわけで、全体のそういう風潮からすると、どちらかといえば、何か書くことへのハードルを高くしてしまうようなことはよくないかなと(もちろん個々にみれば相当問題のある文章もたまにあるけれど)。


 なのに(上の引用部分を)載せたのはなぜかというと、そこまで私が配慮して沈黙する必要もないだろうと思ったからです。このあたりはyukattiさんのサイレントマジョリティであることが果たして良いことなのか……ということで、黙っていたら伝わらないことの方が多いのは事実であり、言うべきことは言っておかなくちゃ、ってことなんじゃないかと思ったりもするのですというような問題意識に繋がる話かもしれません。

 つまり、以下少し強調して書きますが、語られぬ思いを推し量ることが美徳とされる社会では、逆に推し量られることを期待してさらに屈折した形で「自分を」アピールする戦術も出てくるわけです。
 (話が飛ぶようですがそうではなく)たとえばrucciさんのおっしゃる「しかし欠けて見えたとしても本当は月は丸いのだから、月の中心に向かって応対するように努める」という心理を逆手にとって、わざとワルぶって振る舞うことで「ほんとはすごく優しいんだろうな」と思わせるようなケースも(本人が意識しているかどうかは別として)たくさんあると思うわけです。

 見せるために言うずるさと上に書きましたが、これはふだん十分にその危険性やずるさが意識されている。逆に、見せるためにあえて言わない≒匂わせるずるさというものも存在するのですね。さらに別の話をすると、(年齢は別として)考えているようでいて何も考えてない人も、当然います。なんというか、規範意識が低いというような。


 少し自分の中でまとめに入ると、

  • 見える部分・見聞きした言動そのものについては、まずその通りに受けとめる。(これは最近の関連のお話では比較的意識されていないところではないかなと思ったので、今回あえて少し強調して書いてみました。)
  • そして、見えない部分や、言動の背後にありそうなものについては、推し量る力と、「いくら推し量ってみても人にはわからない部分がある」という限界に意識的であろうとする謙虚さ≒慎みのようなものが必要。(これが最近の関連のお話で主にテーマとされてきたことでしょうね。)
  • ここで重要なのは、「言動そのもの」と「言動そのものとは違う、背後のもの」を見分けることかもしれません。つまり、たとえば「人を殺す」という行動があったとして、殺すことそのものは悪いこと。ただ殴った背景には何か色々な事情があるかもしれない。そうした事情についてはまた別の評価が成り立ちうる、というような。


 ……なんだかこういう事柄をさかしらに書くのが野暮でひどくみっともないことのように思えてしまうので、たいへんためらいます(それもあって今回リンクもトラックバックもしない)。
 もう少し話を広げると、自分がたとえば疲れている人に励ましの言葉をかけることや、何か役に立つ情報を提供すること、何かいいことがあった人にお祝いの言葉を贈ること、何か丁寧に挨拶をすること、お礼を言うこと、謝ることなどがひどくむなしいことのように思えます。極端に言えばどれも自己アピールのポーズのような気がして(もちろん面と向かっての日常生活ではまた少し違いますが、webやメールでのことを極端に言えばの話)。レビューなども、読めば分かることをあえて言葉にして書いてみせることに何の意味があるのだろうという気もしています。


 ただこういう、何か発言をするということについての心理的なハードルは(少なくとも他の人は)感じない方がいいのだろうとは思うので、今回あえて言葉にして書いてみました。慎みをあえてかなぐり捨てて書くべきときも、意外と、あると思うので。
なお、yukattiさんの文章の中で黙っていたからつけ込まれてしまった歴史があるんじゃないかとという部分はやや唐突にも思うのですが、なぜ唐突に思えるかというところがすなわちyukattiさんの「言葉にできない」ところかもしれず、私が漠然と思うことはその引用文を含む段落の方向性としてはこの私の文章全体と似ているのかな、とも。

 この記事の話題がよくわからない方は[はてな][Web][雑記] 行為とその主体/まるごとバナナをご覧ください。その文中リンクからrucciさんやyukattiさんのページへいけるので、そこから「最新の日記」などで。