閉塞感と正義と「社会正義」、定義

ヒーローものゲームの攻撃性、そんなのどうでもいいじゃないですか

むしろ、正義を不可能にする閉塞感が、社会無意識を介して、単純でわかりやすい怪物への欲望に変化しているのかもしれないし、その欲望する主体は、むしろ、ヒーローゲームを忌避する社会正義の感性ではないのかと皮肉に思う。

 日本での話。たとえばアメリカではまた違う(アメコミとか)。


 で、少しこのあたりの実態はねじくれていて、うーん。異論は全然ない。文脈はおいておいて、ポイントをしぼって少し書いてみると。

 つまり、ヒーローゲームを忌避する感性が閉塞感を感じ、自分でも知らない内に怪物への欲望を抱く(少し違うが簡単にするとそんな感じ)。他方で、その感性は、ゲームそのものについては擁護し、ゲームを批判する者に対しては断固反発する。

 で、できあがるのは、というか好まれるのは……破壊への衝動がファッショナブルな形で体現され、それを大いに見て楽しむ。
 (紳助話のときのテラヤマアニさんの文章も関連して思い出しているが、「必ずしも」テラヤマアニさんがそうだとは思わない。)


 で、昔はゴジラが「怪物」の役割を担っていたのかな。今はわかりづらい。普通の不良の実態の変容にも似ているかも知れない。悪への衝動はより隠れたおしゃれな形で潜み始めた。と、書いてみるとすごいありきたりな文章。

 出る杭を叩こうとする「社会正義」と、それへの反発だけによって出る杭は、どれも間違った在り方だと思う。そして「正義」と呼ばれるべき対象(シニフィエ)は、また別の物なんだろうな。私の中では少なくともいわゆる原理主義のイメージではない。


 抽象的なレッテルを大仰に使おうとすると、その使おうとしたレッテルに振り回されて実態が見えなくなる。たとえば「正義を追求すること自体がよくない」という言説の言いたいことはわかるが、その言説自体は不正確。なぜならそもそも、追求すべきものを正義と呼ぶから。(と一応言っておく。)

(そして、「正義を追求すること自体がよくない」と言明した瞬間、またそれに納得した瞬間、その人にとって善悪と行動基準そのものが意味を持たなくなる。何を追求することをも自分で禁止してしまって、あとには虚しさだけが残る。

 その虚しさと息苦しさをなんらかの形で自己弁護すると、「楽しければいい」みたいな形になるのだろう。楽しいのかどうか。)


 とりあえず字面の意味にしぼると、ある命題の真偽を判断するのは簡単だ。そしてその手法はけっこう必要だ。

 超話ずれまくり。でもないか。