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「天使のようだね」と、明るい赤のマントときれいな白い袖なしドレスを来た養育院の子供たちが聖堂から出てきて言いました。

「どうしてそのようなことがわかるのかね」と数学教師がいいました。「天使など見たことがないのに」

「ああ、でも見たことはありますよ。夢の中で」と子供たちは答えました。すると数学教師は眉をひそめてとても厳しい顔つきをしました。というのは彼は子供たちが夢を見ることはよろしくないと考えていたからです。

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Copyright (C) 2000 Hiroshi Yuki (結城 浩)
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 まず子どもたちの服装について。明るい赤ときれいな白のコントラストが目を引く。ちなみに小さな子どもは色の識別が苦手→派手でわかりやすい色を好む。袖なしドレスが少し想像しづらいが、いったん方針を曲げて原文にあたる。 pinafore これは女性や子どもの着る、エプロンと思えば良さそうだ(goo英和辞典での検索結果)。
 そして養育院という点にも留意する必要がある(原文では the Charity Children 、つまり孤児院の類か)。お仕着せの制服のようなものであり、子どもたちはみな同じ服装だが、明るい(bright)赤いマントと、かつきれいな(clean)白い袖なしドレスからは、子どもたちに気持ちがよくて清潔な服装をさせてやりたいという養育院側の心遣いが見てとれる。一人一人に別々に服を買い与える余裕がないか、あるいは何らかの理由で同じ服を着せる必要があるのだが、色の選び方と清潔さから、子どもたちをけして邪険に扱っているのではないと推測できる。少なくとも小説としてはそういう読みになる。

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 子どもたちや先生の会話の内容について。子どもたちの最初のセリフ。「天使のようだね」まあ子どもらしい、率直な感想といえる。


 数学教師の反応。数学を担当している教師らしい、厳密さを要求するような言葉。
 ただし、先の子どもたちの言葉は、必ずしも教師に向けられたものとまでは思えない。訳文にもそのことが反映されている(最初の言葉の常体と、次の言葉の敬体)。


 天使を夢の中で見たことがあるという答えに、数学教師は眉をひそめてとても厳しい顔つきをする。子供たちが夢を見ることはよろしくないと考えていたから。ここにきていっそう数学教師が堅物であることが強調される。
 しかし、これはけして数学教師が悪人だとか、子どもたちのことを考えていないという描写ではない。かれは聖堂に子どもたちの付き添いで来ている養育院の教師であり、養育院については子どもたちの服装から悪い経営をしていないことがわかっている。
 空想の世界に逃れることがよろしくない、養育院で育っている子どもたちだからこそ、現実に向き合って生きていって欲しいと思っているからかもしれない。あるいは単純に、子どもたちがぐっすり眠っていれば夢など見ないはずだ、ぐっすり眠ることができていないのだろうか、という懸念からかもしれない。少なくとも、子どもたちを叱りつけるということまではしていない。自分の中で抱いた懸念が、表情に表れてしまっているという点では素直な人だ。

 誰かのために誰かが憂うのは、相手のことを思っているからこそ。


 子どもたちの側の話に戻る。幸福の王子は、幸せの象徴であり、希望の象徴でもある(既にいくつかのエピソードでそのことが描かれている)。それはある少年/青年の形の彫像というよりも、そうした気持ちが明るくなる概念の象徴であり、「天使のようだ」という子どもたちの表現は、それほど的はずれなものではない。子どもたちは聖堂から出てきたときに幸福の王子を目にしてそう表現しているので、聖堂の中で既に天使を思わせるものに遭遇していたからかもしれない。

 子どもたちは夢の中で天使を見たことがあるという。そのことは数学教師が何か心配することではないようにも思える。
 夢については今日ではさまざまな分析が可能となっていて、ある考え方によれば生活が思うようにいかないときによい夢を見、幸せなときには悪夢を見てバランスをとるという。この考え方によると、天使を夢の中で見るのは不幸せだからということにもなりそうだ。しかし、子どもは経験が少ないから見聞きした範囲でイメージしたことを夢に見る、単純にそう私は思うから、夢で天使を見るというのは別に悪いことではないだろう。またラフにいえば真・善・美への思いの現れのようなものだから、かりにそれを養育院での保育・教育の結果として見るならばまずまずといったところだろう。


 数学教師は大人であり、子どもたちのように素直にそうした真・善・美への思いを表明することができなくなっているか、表明することをためらうようになってしまっているということも言えそうだ。それは養育院での教育に携わっているゆえに、そうした境遇の子どもたちが生まれる原因となる社会の多くの悲惨について他人より多く見聞きしているからかもしれないし、単に数学教師のそれまでの来し方(子どもだったその教師が次第に成長して現在に至るまで)に由来するのかもしれない。
 これらは推測にすぎないが、数学教師が眉をひそめてとても厳しい顔つきをする背景には、その人なりの歴史がある。称賛することではないが一概に非難することでもない、そして養育院の子どもたちもまた否応なしに自分の置かれた環境の中で育っていく。服装の明るさと清潔さに希望は見える。