なんか長くなった

 きのうふと思ったこと。


 ネットで多数のかつ多様な他者の目に自己の言動がさらされる。目の数と多様性、さらされる期間が一定の臨界値に達すると、その集合体は質的に変容してほとんど神としての意味を持って浮かび上がる場合がある。
個々の読者を思い浮かべながらもその個性と受け取りかたは意識から捨象され、あるいは別の次元で、一個の普遍的理性・知性、or黙してただ受けとめる誠実な聴き手という抽象的存在を想定し始める。

 ここでいう神とは2ちゃんねるでいう「神」、idol偶像としての神ではなく、むしろ芸能人アイドルにとっての大衆に近い。ただこれは単なる洒落で、この大衆の意味をもう少し詰めるとリウ゛ァイアサン化して大きくずれる。

 むしろ信頼すべき他者、究極の岡目八目的存在として形をとりはじめる。場合があるということ。

 もっともこれはネットに限らず充分な大きさの共同体では起こりうる、が、そのがいぜん性はおそらく日本では有意に低い。世間の狭さ?人聞きの悪さ?よくわからん。
 上のような筋で、神を持つのは共同体だ、純粋なロビンソン・クルーソーは神を持たないというような考えは理解できる。例えば少なくともフライデーがいなければそもそも他者という概念はない。

 しかし全く別の話として、不可知論的にもまた科学的姿勢からも「神は実際におられるかもしれない」とするのが正しい。そして、ここから先がはじめて信仰の領域となる。

 アシモフ無神論者だがアシモフ『永遠の終わり』でいえば、エターニティ<永遠>がここで終わり、インフィニティ<無限>がここで始まる(これは逆のようだがそうではない。わたしたちだけで全てをコントロールしなければいけないという呪縛から逃れるわけだから)。あるいは仏教的にはこれが成仏か。


 ともあれ、そうした理知的な存在に向けて書くというスタンスをとることでよい。メロスだったろうか。神々もご照覧あれ。アンドご笑覧あれ。そうか、太宰も具体的な他人やある種の義ではなく(『駆け込み訴へ』は醜く苦しい)、もっと大きなもの、象徴としての富士山に目と誠を向けたときに安らいでいた。


 ただ思い返すとやはり日本では困難だな。太宰も芥川も尾崎豊も三島も自殺した。(彼らの自殺の正確な理由など知らないがそもそも自殺に正確な理由などない。キューブラー・ロスを思え、自殺は支配欲と無力感の衝動的で悲しい野合だ。)
こんな文章も圧倒的に「どうしたの?」という目で読まれる。共感以前に理解できる文脈がない。それはそれでいい。私が誰に向けて書くかが大事。それはたぶん、「あの誰々に」とかいうわけではない。