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 「1」、「1の補足」ときて今回は「2」です。
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 では「1」で扱ったところの続きから。今回は書いてみたら分量的に、かなり短い範囲についての感想で切り上げることになりました。

「この世界の中にも、本当に幸福な人がいる、というのはうれしいことだ」失望した男が、この素晴らしい像を見つめてつぶやきました。

<版権表示>

Copyright (C) 2000 Hiroshi Yuki (結城 浩)
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プロジェクト杉田玄白正式参加作品。

<版権表示終り>

1

 男が何に失望したかは記されていない。そこで読者はあれこれと想像をめぐらすことになる。あるいは「彼が何に失望したかは知ることができない」という、実社会ではよくあることで満足しなければならない。ただし男のつぶやきが「この世界にも(後略)」とあることから、結果としてこの世界になんらかの悲しい思いを抱いてしまったと言えるようにも思う。ただしそれが失望の内容とイコールかどうかは、少し考える余地がある。

2

 男のつぶやきの内容。この世界の中にも、本当に幸福な人がいる、というのはうれしいことだ。裏を返せば、男にとっては「幸福に見えたり幸福なつもりになっている人はいるかもしれないけど、本当に幸福な人などいないように思えてしまう」ということ。作品後半に登場する数々の悲しいエピソードからしても、この世界は悲しみであふれている。通りいっぺんの同情ではどうにもならない理不尽であふれている、という方向で作者は書いているように思える。その悲しみは主に貧しさという形で描かれているが、それはまた後の方の該当部分で。


 しかしそのような世界にあっても希望はたしかに存在する。幸福な人は存在する、その人のことを思い浮かべるだけでうれしい、と男は思う。そのうれしさは大きな感情の隆起をもたらすものではなく、せいぜいつぶやきの形としてしか現れない。これは男の失望の深さからくるのかもしれないし、(失望とは一応別個に観念できる)この世界への思いの性質を表わしているからかもしれず、あるいはうれしさの小ささゆえかもしれない。だが、たしかに幸福の王子の存在は男にとってうれしいことだ。少なくとも、世界のどこかに喜びを見出したいと願う男にとって、幸福の王子はたしかな一つの救いだ。

3

 テキストのすぐ前の段落で「賢明なお母さん」が幸福の王子の(想定される)人格を引き合いに出して幼い男の子をさとしたように、失望した男は、幸福の王子の境遇と心持ちを想像し、そこに小さな喜びを見出している。いや、男が見出したのは境遇と心持ちだけではなくその人格も含めてだろう。本当に幸福な人という表現は幸せの内容を何ら限定していないから。


 幼い男の子にとっても、失望した男にとっても、幸福の王子は高く見上げる一つの理想像として存在している。


 幼い男の子は、一つのモデルとして幸福の王子を思い、それに向かって成長しようとする(少なくとも「賢明な」お母さんはそれを望む)。これからの人だ。

 これに対して「失望した男」は、幼い男の子と違ってもはや大きな可塑性、可能性を持たない。既に何かについては終わった人。少なくともその時点で希望を持てていない。それでも、自分ではなくとも「この世界の中に」幸福な人物の存在することに、一筋の光を見いだし、希望をそこにおく。自分という一人の人間はついえた(と男は思う)。しかしそれでもなお、世界の誰かは幸福たり得るのだ。他ならぬこの世界の中にもいる。男は素晴らしい像を実際に目にしてそのことに気づき、つぶやきとしてそのうれしさを言葉にする。