ハテハテフフー

 もちろん人の役に立ちたい、困っている人を助けたい。これは大前提。ここを重視し忘れないのが、おそらく私の左翼的なところ。

 だけどそれは「私が」でなくてもいいし、私が助けたとしても知られなくていい。ここはきちんと把握しておきたい。


 そして、しょせん人の役に立つなんてひどく難しい。親しい人を助ける、親しくない人を助ける、どちらの場合もそれぞれ別の困難さがある。なのに考えなしに踏み込もうとするなら、それは「ただの」自己満足で、相手の役に立つどころか相手に害をもたらす危険さえある。これは身にしみて分かっている。もともと人はひとり。

 善意のこの厄介さをも痛感している点が、おそらくいわゆる悪しき左翼とは違うのかもしれない。書きながらよくわかっていない。自己実現の道具として他人を利用するだけになるのは、自分にとってメリットがあるが相手にとってはデメリットが大きい。


 ではあるけれど、現に、困っている人は存在している、というか、あの人やこの人が困っていて私はそれを知っている。知っているが、ほとんど私は役に立たない。

 過労をおして働く人、対人関係で苦しむ人、暴力の犠牲になっている人、自分の欠点と世の中の理不尽さに絶望する人。個々の人に応援の言葉を伝えたり実用的と思える自分の知識を紹介してみることすら、上から見下されたと思わせる危険があることを既に思い知らされた(これは私のキャラクターのせいかもしれないし、相手の受け取り方のせいかもしれない。おそらく両方だろうし、そういう危険は一般的なものなのだろうけど)。


 で、どうするか。現状私はほとんど役に立たない、というところから始めるしかない。


 悪い意味での左翼のように、共感と自己満足だけで感情的に動いても自分は救われるし、それなりに何らかの意味はある。また悪い意味での右翼?のように、そもそも人を助けようとか弱者に連帯しようなんて思わないようにした方が結局は、お互いの精神衛生上いいのかもしれない。
 でも自分としてはどちらの極端にも走りたくないのだろう。やはり、本当の意味で「相手のために」「できるだけ」役に立ちたい。これは抽象的に「役に立ちたい」ということではない。ある特定の人の、特定の理由による具体的な苦しみを減らすために、自分には何ができるか、何をしていけばよいのか、見きわめて地道に取り組みたい。ここにきて愛とかいう言葉を思いついたが、愛って誤解しやすく振り回されやすい概念だなと思う。


 ニュートラルな心持ちで、あの人やこの人のために(何ができるかな)(何をしたらいいのかな)と考えている。そのことで頭をいっぱいにするのではなく、意識の片隅で。

 今日も朝からいい天気だ。