マックス・ヴェーバー『職業としての政治』

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波文庫ISBN:4003420977)も読みかけだったのですが、今日読み終わりました。ヴェーバーが1919年1月にミュンヘンの学生団体のために行なった公開講演をまとめた、短い本です。


国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体。そして権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力が政治。
本書はそういうあたりから始まっていわば価値中立的に、人間の人間に対する支配の諸形態(伝統的支配、カリスマ的支配、合法性による支配)や、行政スタッフと(物的)行政手段の分離の程度による国家秩序の分類(身分制的か、君主の直轄支配か)など、また臨時の政治家、副業的政治家、本職の政治家といった視点で、各国の代表的な政治システムの特徴や歴史的推移を概観していきます。


この過程で私に新鮮だったのは、ジャーナリストの地位に対するヴェーバー(私はウェーバーという表記に親しみを感じますが、この本の表記に倣って)の高い評価です。

ジャーナリズムの困難さとそれにつきまとう誘惑を述べた上でウェーバーは、だから、人間的に崩れてしまった下らぬジャーナリストがたくさんいても驚くに当たらない。驚くべきはむしろそれにもかかわらず、この人たちの間に、立派で本当に純粋な人が−−局外者には容易に想像できないほど−−たくさんいるという事実の方である。とします。

大新聞資本家の政治的影響力が、−−たとえばノースクリフ「卿」にみられるように−−ますます増大する一方、現場のジャーナリストの影響力がますます低下するという命題は、連合国でも、どの近代国家でも妥当するように思われる。という下りも、今の日本のいくつかの新聞を思い起こさせて興味深い指摘でした。


あー時間がない。この先が伝えたいところなのですが…。駆け足で。


そしてヴェーバーは…ダイジェストはやめましょう。後半から、いわばザイン(現状認識)のみならずゾルレン(理念としての望ましい在り方)の話になってきます。
心情倫理と責任倫理という概念は私にとって有益なものでした。

末尾から引用します。

政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。
(中略)
そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が−−自分の立場からみて−−どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。

結局実際には、ヴェーバーが危惧していたようにドイツは逃避と陶酔によってナチズムへと傾倒していったわけですが、ヴェーバーの熱いメッセージは時代と国を超えて、いまも私たちに届いています。


この本も古典と呼ばれる部類に入るでしょう。