再び「けまらしさ」について


 寝て起きたら、加野瀬さんがこの「夏のひこうき雲」をとりあげてくださった記事「身内の繋がりを強化するためか、新しい繋がりを作るためか」から一晩でどかんとアクセスが。今日付の記事なので、まだこれからもこもこと増えていきそうです。こういうの初めてなので、ちょっとスリリング。ワクワクドキドキ♪

 加野瀬さんが上の記事でさらに様々な考察を加えていらっしゃって、記事のタイトルも含めて全体を読むと私が付け加える視点は何もないのですが、ひとつ書いておきたいと思います。

 ここで感じる「けまらしい」(≒疎ましい、妬ましい)という感情は、結局、極端にいえば
<自分の知り合い以外の人間からの視線に鈍感であったり、あるいは視線を無視する、潜在的なコミュニケーションの対象として考えない、視野に入れない>
そうした「無自覚さ」に向けられているという点に注目すべきではないか。
 ぱどタウンも勿論そうですが、むしろ電車の中で化粧をする女性の例を念頭に置いてもらえると、私のいいたいことが伝わりやすいかと思います。


 社会全体がそうして細かく分断され、それぞれにゆっくりと閉じていく傾向にあるとうすうす感じている人が(実際に社会にそうした傾向があるかどうかは別として)、「けまらしさ」を感じやすいのではないかと(ただしこれはもっぱら「疎ましさ」の側面でしょうね)。

 罪と恥の文化/大文字の「他者」という存在、というところまで行くと私が扱うには時間と力量が不足していますし、ちょっと細い道に話を進めすぎという気がするのでここまでにとどめておきます。

 この一連の話は、別に「けまらしさ」を感じる人や「けまらしさ」を感じさせる人を非難しているのではありません。私自身どちらの立場も経験しているので。