私が決めること、あなたが決めること

 たまにそれほど親しくない友人から便りをもらっても、日々の雑事に取り紛れてつい無視した形になってしまうことがままある。仕方ない、そんなものだ、と思う。しかしだからそれはそれでよい、と思うかどうかはまた別だ。私はそんな自分の現状を少し変えようと思っている。そして少しづつ変えてきた。
 <自分の足りない点を意識すると心苦しくなってやたらと腹が立ってくる>というタイプの人は予想以上に多く、そういうかたにはあえてアドバイスなどしないのが身のためだが、私はどちらかというとそんな心苦しさはあまり感じないほうだ。だからお世話になりながらご無沙汰している友人たちに何かお礼をする機会を、いわば虎視眈々と楽しくつけ狙っている。私にとって恩を売られるのは嫌なことではない、恩を返すという楽しみが増えることだ。そんな相手には、私は恩着せがましくなく、自然な形で親切ができるから。
ついでにいうと仇を受けるのは嫌なことではあるが、自分は仇で返さずに笑顔を返すという面白い貴重な機会を与えられたと理解している。

 これはゲームだ。私はこのゲームを真剣にプレイする。gameは本来真剣にプレイするべきものだ。
もっとも、心苦しさを味わわせたいからこそあえて仇をなす人は、私がゲームで味わう達成感に気づいて余計に不愉快に思うかもしれない。そういう人には悪いなとは思うが放っておく。


 「誰も私を不愉快にさせることはできない」
不愉快になるかどうかは私が決めていることだ。

 これはあくまで私の個人的なスタンスだが、読んでくださったかたの参考になればいいなと思う。私もさまざまなかたの考えをずいぶん参考にさせてもらっている。


不愉快な感情を抱くのは不愉快だから避けたい。これは「事件は現場で起こっているんだ!」という台詞と同じぐらいに当り前で、トートロジーに近い。事件が起きた場所を現場と呼ぶ。避けたい感情を不愉快と呼ぶ。


 私は愉快な夢を見る方法も知っている。単純だが、楽しいこと・嬉しいことを具体的に光景として想像すればいい。
 ではおやすみなさい。