映画と観た人と作品論

 ハウルの動く城、観てません。観ないかもな……。

[映画]ハウルの動く城新・サイコドクターあばれ旅風野春樹の読冊日記より)

このところの宮崎アニメは、テーマが先に立つあまり爽快感の足りない作品が多かったのだけれど、久々に古き良きまんが映画時代の宮崎駿を思わせる快作


ハウル雑感(上に同じ)

 私なりに大ざっぱに要約すると

  • 世界を描く映画にはなっていない、それはそれでいい
  • 主要なキャラクターがみな変容していくことと、ソフィーの容貌の変化、ソフィーが自らかけた呪いについて。結末での容貌と成長、元の自分ではないこと


日々の凧あげ通信の2004.12.2(夜)から(大塚さんブログ移行を検討なさってるみたいだけど、個別の記事へのリンクが示せるようになると紹介しやすくなってありがたいな)

つーかハウルっていわゆるダメ男じゃないのか? 才能あるんだけど壊れてる系の

そういう男の生け贄になりたくなるってわりによくある話だろ、自分に自信のない女子はさ!

 これにはドッキリ。上のレビューとまったく違う視点で新鮮でした。なるほどそういう映画でもあったのか。じゃあ観たくない気もする(「耳をすませば」もそんな感じのとこあった)。

webやぎの目:200411月 アーカイブの2004.11.18 Thu 11:58より

ハウルのまわる寿司

 この笑いはかなり私の中に余韻を残しています。知り合いにもけっこう言いました。
城が動く、寿司が回る。信じられないエンターテイメントですよね。


 今回引用しながらしみじみ思ったんだけど、同じ映画に対しても、やはりそれぞれのかたらしい切り口で触れていらっしゃるなあ。しかもそれぞれたいへん参考になる。文は人なり、となんとなく言ってみる。

 規制の必要と自由と責任

 bmpさんの筋違い・・という記事とそのコメント欄を拝見しました。

 コメント欄に下のような文章を書きこもうと思って手元で書きはじめていたのですが、ずいぶん長くなったので以下に記事として掲載することにします。

 (なんかどう書いてもとげとげしい文章になりそうだな)と思ったら、相手のブログのコメント欄に書き込むつもりになって書くとよいかもしれませんね。


 bmpさんこんばんは、こちらでははじめまして。今回の記事に反応する前に、ここで少しだけ補足と質問をさせてください。

・fake-jizoさんのおっしゃることは大体あたっていると思います(厳密には、私は占い全般、それから騙し・トリックに批判的ですが。そもそも「呪詛」の温床になりやすいので)。fake-jizoさんのおっしゃる呪詛とは、たとえばhttp://d.hatena.ne.jp/summercontrail/20041201#kleで挙げている(1)(2)(3)ですね。


http://psychology.jugem.cc/?eid=41はお読みになりましたか?私は十分「呪い」になっていると思うんですよ。そしてそういう明確な就職差別などの深刻な事例が、星座占いについても十分あり得る、と。
 まして「県警の立場でそのような発表をすれば、余計に悪い道具になる」というデメリットを、県警はもっと認識すべきだと思うんです。これは、娯楽番組でなく、教養番組を装った「あるある」にも言えます。だから、私は場合によっては規制も必要だと考えています(ばかげた規制は有害ですが)。
 ここは価値観の違いかもしれませんが、単純に現状の事実認識の違いかもしれません。私やbmpさんの知らないところでも被害は大きいと思っています。


・私がbmpさんの記事に言及したのは、bmpさんのように「真面目に議論することじゃない!」と言ってしまうと、ますます呪詛全般について被害者や周りの人が抗議自体しづらい状況になってしまうからです(現に私が血液型占いを批判するのは、堅苦しく見えていると思います)。抗議が減ると、血液型占いなどが「社会の常識」になってしまい、ますます被害が増えるという悪循環になります。
 bmpさんご自身に対して、それ以上の批判の意図などはありません。

 それから漠然と思うのですが、http://d.hatena.ne.jp/mutronix/20041201#p4で私のコメント「mutronixさんが警戒しているのは」あたりがお答えできているかもしれません。よかったらぜひお読みください。

 少しだけといいながら長くなってしまいました。orz


 まあどうでもいいんですけどね……と言いたくなりましたが、でも一生不当な烙印を背負って生きていく人や、烙印を押されつつある人のことを考えるとどうでもよくはないな。少しはその烙印の重みを軽くしたいし。


 知り合いが「あんたは天王星人だから人の話を聞かないで、話し下手なくせに自分の事ばかり話す」と言われて激怒していました。「自分の事ばかり話すのはあいつなのに。しかも天王星人だからとか言われたら、自分ではどうにもできないだろ!」と。


 知り合いに今度その話をされたら、

『「俺は天王星人じゃない、おっぱい星人だ!っていうかおっぱい聖人だ!とってもホーリーなんだぞ!」って言っておごそかに合掌すればいいですよ』

 と忠告しようかと思います。自分の意思による興味を基準として自分を再カテゴライズすることで、アイデンティティを自らの手に引き戻す(まー、その知り合いは別におっぱい星人じゃないんだけどな)。

 末世にはオカルトがはびこるってことだろうか。かず子さんはまだまだこれからさらに花開くんでしょうか。それともサッチーみたいにそのうちバッシングで消えていくのかな。

 もうすぐクリスマス

 なんか自分の器の大きさが試されている気がするな。

 尊敬する方々がこういうときにどう対処するかを考えてもわかる。ファウンデーション風にいえば、「答えは嫌になるほどわかりきっている」。徹しきれないのは優しさか弱さか。

 よし、もう少しだけ時間割く。ただし、自分のリソースを浪費せず、かつ、相手の名誉を絶対に守る。恥をかかせないこと。

 結果として自分の品位を保つことにもなる。識域下で不特定多数にとってのロールモデルとなることからも、保つ必要がある。

 イタリアン≠斜体

 昨日付の記事でイタリアンって書いたとこ、間違いです。「イタリック」が正しい。やっぱ疲れとるわ。
そもそも「記事」「記事」って大量に連発してて疲れてきた。雉も鳴かずば打たれまい。ケーン!(市民ケーンが)

 「普通」って言い方はたしかにまずかったな

日記ちょうから。

誰かがだまされた結果、誰かが傷つくのなら、「だますな」と言うのが普通でしょ

この手前までは反論ないんだけどもここだけ。それは普通ではないと思う。 誰かがだまされた結果、誰かが傷つき(別の誰かがたぶん得する)ならば、 誰が得して誰が傷づくかによって「だますな」といったりいわなかったりするの が普通だと思います。人間の判断能力はそこまで自由ではないってこと。 でも何が普通だと考えるかってことそのものが人によって違うんだよねえ(笑)

 まあ「普通」という言葉が引っかかりやすいのかもしれませんが……どう書けばいいかな。

 「だますな」と発言する人を揶揄したり否定するのは、筋が違うでしょ?というようなことが書きたかったわけです。

 普通、つまりstrangeさんのすぐ下の記事の表現を借りれば一般的で当たり前の感覚かどうかは説得的な根拠にはならないし、それ以前に表現が稚拙でしたね、すいません。


 strangeさんのお考えは、(たとえば統計上とかでは)その通りかもしれません。

 だけど誰かがだまされた結果、誰かが傷つく(そしてたぶん誰かが得する)なら。
とりわけ得するのがだました人である場合なら。
 私は「それはよくないことだ」と判断するし、それが一般的で当たり前の感覚じゃないかなと(発言するかどうかは別にしても)。違うと思われる方は違うでいいんですが。


 だから、これは人間の判断能力はそこまで自由ではないってことというよりも、
「善悪の判断にしたがって『行動』をしない場合が多い」
 じゃないかと。つまり、わかっていてもやらない傾向。判断と行動がずれるというか。

 なんか頭が回らなくなってきたんで改行を多めにして自分で見やすくしてみました。。私の判断能力はそこまで自由ではないから(笑)。

 そろそろこの関連の話題はもうやめますね。