FirefoxでJavaのアドオンの不審な挙動を止める方法
Firefox、最近何度もJavaのアップデートをやってもやっても促されてどうなっているんだろうと思っていたのですが。
Firefox 3.6とJava Console - 微小電波天体
C:\Program Files\Mozilla Firefox\extensionsを開くと、{CAFEEFAC-0016-0000-00xx-ABCDEFFEDCBA}のようなフォルダが複数あり、中を開くとどれもJava Consoleと書かれたinstall.rdfがありました。このフォルダ群の最新以外を削除すると直りました。
上の操作で私のも直ったようです。ありがとうございました。
お元気ですか
ご無沙汰しています。ここをご覧になっている皆様はお元気ですか。
先ほどこのはてなダイアリー(ブログ)につけられていたコメントを承認し、お返事を書きました。遅くなってすみません。
私は元気に毎日を送っています。たぶん以前よりずっと元気で、間違いなく以前よりずっと多忙です。でも、コメントへのお返事を書きながら思いましたが、良くも悪くも感性は変わっていません。
前回更新してから、もう新しい年になり、そろそろ春になろうとしています。季節の変わり目、皆様もお体を大事になさってください。
更新は久々ですが、ネットはそれなりに閲覧しています。今の生活にも慣れてきて、今後は更新の余裕もあるんじゃないかと思っています。
ここで書き始めてから6年近くになります。これからもできれば何十年と続けたい。そういうわけで、今後とも、よろしく。
ドーキンスの「無神論」はその後変わっているようです
「キリスト教は独善的」と小沢氏、仏教は称賛 - MSN産経ニュース
この中で小沢氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明。イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。
一方、仏教に関しては「現代社会は日本人の心を忘れたり見失っている。仏教は人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と称賛した。
私はキリスト教徒だけど*1、とくに現時点で熱く反応したいとは思いません。「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」
というコメント、〈一言コメントでついでに斬!〉といった感じでお茶目ですね。そんなに簡単に片付けられてしまうイスラム教はかわいそう。
この話題のニュースページへのブックマークコメントでも書いたけれど、昔の森首相(当時)のコメントを思い出しました。「天皇を中心とした神の国」だったっけな。小沢一郎さんは全日本仏教会の松長有慶会長と会談後
という、その場の状況に応じて臨機応変に宗教観を披露
するまことに日本人的な「状況倫理」の持ち主なのかもしれないし、そうでなくて元々そう思っていたのかもしれない。
いずれにしてもよく遭遇するのでこの手の言説にはもう慣れました。以前十分言及してきたのでもうお腹いっぱい。自国に自信を持ちたい人が他国の伝統的な文化や思想をけなして安心したがるのはありがちだし、(仏教的な背景を持つものを含めて)自国で起きた過去の”排他的な”行為を無視するというのもよく見る。たとえばキリスト教徒に対する踏み絵や拷問、オウム真理教による大規模な重大犯罪。
で、404 Blog Not Found:神なき教えは宗教か? - #書評_ - The God Delusionを読んで思いだしたことだけど、『神は妄想である』の著者ドーキンスは既にその本を書いた当時と比べてだいぶ考えが変化しているようですよ。
『神は妄想である』の著者で、宗教を毛嫌いする無神論者として有名なリチャード・ドーキンスが、『The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution』という新刊を先週出版したそうだ。それに関するニューズウィーク誌のインタビューを読んでびっくり。「新刊でも進化論と神への信仰は相容れないものだという立場を取っているのか」という質問に、なんと「ノー」と答え、その素晴らしい例がフランシス・コリンズだと言っているではないか!前書『神は妄想である』では、進化論と信仰の和合性を断固否定していたらしいので、彼にしてみれば相当な変化だと思う。
2年前になるが、このブログでもドーキンスとコリンズの対話を取り上げたことがあった。(「ドーキンス vs. コリンズ」)その時に感じたのは、ガチガチの無神論者として有名なはずのドーキンスだが、実は、理神論的な神ではあろうが、神の存在そのものは、必ずしも否定しているわけではなさそうだということだった。
ドーキンス vs. コリンズ 2007-09-26 - はちことぼぼるの日記も読んでみてください。
それから、小飼弾さんが輪廻転生に疑問を感じてらっしゃるということですが、ゴータマ・シッダールタは輪廻転生を否定していると私は理解しています。今ざっと検索した範囲では、釈尊は輪廻転生説を否定した(小川一乗)の理解に近い。それまでのいわゆるバラモン教との違いもそこにあるというか。
『僕は人生を巻き戻す』
[書評]僕は人生を巻き戻す(テリー・マーフィー): 極東ブログを読んで購入してあった『僕は人生を巻き戻す』をおととい読んだ。
内容の紹介は[書評]僕は人生を巻き戻す(テリー・マーフィー): 極東ブログに任せるとして、ここでは私の心に残った箇所を引用しつつ、短い私的な感想や関連する書籍を挙げたい。
ノンフィクションであり、劇的にそれまでの流れが変わる場面を引用したからといって未読の読者にとってそんなにこの本の魅力が減ってしまうとは思わないのだけど、内容に入る前にいったん「続きを読む」記法でこの記事を折りたたんでおく。
続きを読む『現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで』を読んでみたいと思った
http://book.asahi.com/review/TKY200909010127.html
asahi.comの書評ページでこの本のことを知った。原書の副題は「キリスト教の懐疑的な肯定」だそうだ。
今日どの宗派も自明のこととして受け取ることができなくなった。そのような状況では、宗教の伝統から取捨選択して一部を保持し、他を捨てる選択行為、すなわち異端は避けられない。
短い文章にする都合上はしょって書いてあるのだろうけど、ここは少し私とは考え方が違う。現代において避けられないのは「取捨選択」とは思わないし、異端と考える範囲が広すぎる。
だが、以下はまったくその通りだと思った。
信仰をもつことは、「世界は究極的には善である」「最後には喜びがある」ということに賭けることである。
そうなんですよね。
とくに著者がこだわるのが、罪のない子供が苦しみ死ぬことである。なぜこのようなことが起こるのか。これは神を信ずるキリスト教徒として、どうしても受け入れることができない現実である。著者は神自身苦しんでいるという学説も紹介しながら、そして「口ごもり」、躊躇(ちゅうちょ)しながらも、信仰を捨てないのであれば最後は神への信頼に賭けるしかない、と述べる。
昔からこの問題は私を苦しめている。なぜこのようなことが起こるのかということよりも、そのようなことが起こり続けていることそのものが。児童(幼児)買春や、富裕層への臓器移植のための犠牲といったことも含め。
それでも、世界が善であるということに賭ける、あるいは世界を改「善」することに賭ける意味はあると思う。
もう少しいうなら、私はたぶん、「最後には喜びがある」ということに賭けていない。「最後まで苦しみがあっても、そのstruggleには意味がある」ということに賭けている。
そして意味というのはそれぞれの心の問題ではなく、神に由来することがらだと思っている。だから、本人が自分の人生には意味がないと思い絶望していても、神は意味を認めている。
関連すると私が思う書籍
『それでもなお、人を愛しなさい』以外の本については言及したことがあるので、興味があれば書籍名で検索してみてください。