『現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで』を読んでみたいと思った

http://book.asahi.com/review/TKY200909010127.html

 asahi.comの書評ページでこの本のことを知った。原書の副題は「キリスト教の懐疑的な肯定」だそうだ。

現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで
ピーター・L. バーガー
教文館
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今日どの宗派も自明のこととして受け取ることができなくなった。そのような状況では、宗教の伝統から取捨選択して一部を保持し、他を捨てる選択行為、すなわち異端は避けられない。

 短い文章にする都合上はしょって書いてあるのだろうけど、ここは少し私とは考え方が違う。現代において避けられないのは「取捨選択」とは思わないし、異端と考える範囲が広すぎる。

 だが、以下はまったくその通りだと思った。


信仰をもつことは、「世界は究極的には善である」「最後には喜びがある」ということに賭けることである。

 そうなんですよね。


 とくに著者がこだわるのが、罪のない子供が苦しみ死ぬことである。なぜこのようなことが起こるのか。これは神を信ずるキリスト教徒として、どうしても受け入れることができない現実である。著者は神自身苦しんでいるという学説も紹介しながら、そして「口ごもり」、躊躇(ちゅうちょ)しながらも、信仰を捨てないのであれば最後は神への信頼に賭けるしかない、と述べる。

 昔からこの問題は私を苦しめている。なぜこのようなことが起こるのかということよりも、そのようなことが起こり続けていることそのものが。児童(幼児)買春や、富裕層への臓器移植のための犠牲といったことも含め。

 それでも、世界が善であるということに賭ける、あるいは世界を改「善」することに賭ける意味はあると思う。

 もう少しいうなら、私はたぶん、「最後には喜びがある」ということに賭けていない。「最後まで苦しみがあっても、そのstruggleには意味がある」ということに賭けている。

 そして意味というのはそれぞれの心の問題ではなく、神に由来することがらだと思っている。だから、本人が自分の人生には意味がないと思い絶望していても、神は意味を認めている。

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