『僕は人生を巻き戻す』
[書評]僕は人生を巻き戻す(テリー・マーフィー): 極東ブログを読んで購入してあった『僕は人生を巻き戻す』をおととい読んだ。
内容の紹介は[書評]僕は人生を巻き戻す(テリー・マーフィー): 極東ブログに任せるとして、ここでは私の心に残った箇所を引用しつつ、短い私的な感想や関連する書籍を挙げたい。
ノンフィクションであり、劇的にそれまでの流れが変わる場面を引用したからといって未読の読者にとってそんなにこの本の魅力が減ってしまうとは思わないのだけど、内容に入る前にいったん「続きを読む」記法でこの記事を折りたたんでおく。
1998年3月、マイケルはケープコッドを訪れた。自分の幅広い経験と現在あるたくさんの薬と革新的な療法をもってしても、エドにしてやれることはもう何もなかった。そして彼は初めて会ったときとは別人のように哀れに衰えたエドが、腕をゾンビのように広げて階段を上ってきて、なんとか最高の笑顔を浮かべようとしているのを見た。マイケルの人生でこれほど悲しく、絶望したのは初めてだった。この日、ザイン家のリビングのソファに座ったマイケルはエドの目も気にせずに泣いた。こんなにも病んでいるエドがどうして笑顔を浮かべることができるのだろうと思いながら。
誰かが自分のために泣いてくれるということには、なにか、不思議な感覚を覚える。自分がそんなにひどい状態なのか、あるいはひどい目に遭ってきたのかというあっけにとられるような思いと、人の善意そのものを目の当たりにしたかのような。
なお、マイケルというのは、ハーバード大学医学部の精神医学科の教授で、強迫性障害の研究と治療において、世界でも第一人者のひとり
であるマイケル・ジェナイク博士のこと。エドは強迫性障害を煩っている青年。
この間、エドは自分の新たな決意について何も言わなかった。あの日の午後、弱さを見せたマイケルが自分のために流した涙を見て、エドの身体に流れるプロボクサーの血が騒ぎ、無力な患者だった彼は突然内面の強さを取り戻した。この瞬間にエドは今までにないほどはっきりと理解した。強迫性障害こそエドの内なる敵だ。
「ジェナイク先生がリビングで泣いた日、僕はものすごく腹が立った。強迫性障害は僕から人生も幸せも奪っている。それなのにさらに大切な人を傷つけられ、つらかった。だからいまいましい強迫性障害をぶちのめしてやりたくなった」
いつも観ていたテレビや映画のヒーローが、戦いに乗り出して、間一髪で危機を救うときのようにどっとアドレナリンがわいてきた。そしてエドは心の中で強迫性障害と戦う自分を思い描いた。強迫性障害が彼の標的であり、敵だ。それ以外のことはどうでもいい。
怒りというのは人を動かす大きな原動力になる、必ずしも悪い方へだけでなく。怒りは愛ですらある。
余談だが、この点で、怒りを極端に敵視している以下の本は、間違っていると思う(他人への侮蔑と特権的な差別意識に満ちている点でも)。
余談終わり。そして、エドは、マイケルのためにも、自分の強迫性障害に対して驚異的な闘いを挑む。彼の障害は治ったわけではないし、よくなったともいえないかもしれない。ただ、その瞬間瞬間に、超人的な努力で対処し続けることで、日常生活をあまり支障なく送ることができるまでになっている。そうなってからのエドの写真も掲載されていたが、病状が重かったときの写真とはまったく見違えるようなマッチョな体型になり、こざっぱりとした服装をして、そして相変わらず優しい目をしていた。
エドの地下室の(病状が重かったときの)惨状については、ネットの各所で言及されているほど衝撃を受けなかった。私自身ひきこもりのようになっていた時期があるからかもしれない。いまそれなりに社会生活を送っている自分をときどきいぶかしく思うことや、エドの内面の描写とそれへの周囲の反応に照らし合わせると、私自身は(この書籍などから理解する限り)強迫性障害ではないしエドほどの苦しみは感じないものの、他の人はもっとイージーに毎日を過ごせているのだろうと思う。
ネットではこの本を読んで泣いたという人が多いようだ。私も読みながら何度も嗚咽した。なぜかはよくわからない。素晴らしさに感動、というだけでもないようだ。なにか悔しさを共有した気になったのかもしれない。
ここは書き抜いておきたいと最初に思った箇所を引用する。
マイケルを英雄だと思っている強迫性障害患者はたくさんいるが、マイケル自身にとってそれはあまり心地よいものではない。マイケルは人生経験から最も残酷な方法で、人間に与えられた時間がいかに短いかを学んだ。だから自分の人生の時間を苦しんでいる人たちのために使わなくてはという強い気持ちを持っている。彼はそれは英雄的なことではなく、すべての人間に課せられた義務だと思っている。知的で繊細で、内気なところもたくさんあり、ひねくれたユーモアを持つ彼は、目立たない生活を送りながら、時間を見つけてはバスケットボールをし、問題を解決していきたいと思っている。賞賛や自己満足を求めてやっているわけではない。
「すべての人間に課せられた義務」という考え方には反発する人もいるだろうなと思う。
マイケルに限らず同書には隣人への善意にあふれた人々が登場し、エドの力となる。
ドン・ポストは穏やかな口調で話す親切な信心深い男性で、人にはみな神が定めた役目があり、自分の役目は助けを求めて自分の人生に現れた人の役に立つことだと信じている。わざわざそういう人を探しに行く必要はないが、神が彼の家の戸口にその人を送り込んできたときには応えるのだ。だから、ジョシュが作業場のあるフロアに電話をしてきてエドのメッセージを伝えると、ドンは間違いなくこれが自分の役目だと感じた。
フィクションでなく現実にこうした人々がいるというのが、慰めでもあり、励ましでもあり、何か救いのようにも感じられる。
マイケルのユーモアはここには引用しないが、けっこう笑えた。クリストファー・リーヴやその息子さんのユーモアにも通じるところがある。(クリストファー・リーヴはスーパーマンを演じていたあの俳優。乗馬中の事故でほぼ全身が麻痺していたが、リハビリで少し快復していた。)以前も引用したが、『あなたは生きているだけで意味がある』から。
からかわれることで、心は安まるものなのだ。お気に入りは、食卓につこうとしてしばしば車椅子をテーブルにぶつけてしまうとき、ウィルが「イカれたドライバーがくるよ、気をつけて」などといって、自分の皿を持ち上げるシーンだ。
ウィルというのは息子さんのこと。
今や、私は話せるようになり、晴れてユーモアの好餌となった。まず自分で試してみたのはこうだ。
看護士:朝、病室にやってきて「ご気分はいかが?」
私:「そうだな、喉がちょっとイガイガしていてね。鼻はかゆいし、爪も切らないと。あ、それから、身体が麻痺しちゃっててね」
こうしたユーモアはいいなと思う。あるいは、こうしたユーモアがあるから、やっていける。