ブログのネタにもなりそうな『自警録』と、人の好き嫌いの話

 ここ1週間ほど、なんとなく『自警録』のことを思い出していた。

 少し該当部分を引用したい。「狭き己れの好き嫌いで世に処するは危険」という小見出しがついた段。講談社学術文庫で172ページから。
 甲という人は丙という人と永い友人だが、「丙が甲のことをあちこちで悪くいっている」と別の友人乙から聞いた。甲は丙を見てもろくに挨拶しなくなったが、また別の友人丁から、丙がたいへん親切な人だというエピソードを聞いてはっとした、という話だ。次に引用するのは、甲がはっとしたところから。

(前略)甲は始めて(ママ)翻然として悟るところあり、ああ、やはり丙は善い人である。しかし己れを嫌っている。己れとは性質が違うから彼は僕を非難するのであろう、僕を嫌うからとて悪人とはいわれぬ。やはり丙は善い人だと考え直して以来、甲はいっそう丙を尊敬して、交わるようになったことがある。
 僕は人と交わるにはこの甲のごとき心持ちを持ってしたいと思う。よし甲が僕を嫌っても、好き嫌いは各自の性質に存するもので、我が甲に嫌われたとて我は悪い人でなく、またその代わり彼も僕を嫌うために彼を悪人と称することはできぬ。かく思えば世の中は広くなる。嫌いな人でも正しく見えたり、嫌な者でもかえってよく見えたり、人のなす事することが美しく見えて来る。到るところ青山ありと昔の人のいったのは、かくのごとき心の持ち方をいうのではないか。

 自分が尊敬している人でも、自分のことをよく思っているとは限らない。しかし、だからといって自分がその人のことを尊敬しなくなったりするかどうかは別の問題だ。逆に言えば、自分が相手を尊敬しているからといって、相手が自分に好意を持ってくれるかどうかは別の話。相手が自分のことをどう思っているかということにかかわらず、たとえ自分が嫌われたり軽蔑されていたとしても、相手に尊敬すべき点があれば素直に尊敬し続けたい。
 というようなことを、上に引用した部分を読んで思っていた。そのことを最近思い出していた。
 丙が偉い人かどうかは具体的な内容を知らないのでよくわからないが、甲の態度に見習いたいと私は思う。

 この『自警録』は(少し昔の本である割に)肩の力が抜けていて、かいてあることがいちいちなるほどと思わされる。誰か言っていたような気がするが(いま検索しても確認できなかった)、はてなダイアリーの元ネタとして使おうと思えばかなり使えるんじゃないか。はてなと限らず、ブログで清冽な(ややもすれば愚直な)文章を読んでいるときの感じに近い。

自警録 (講談社学術文庫)

自警録 (講談社学術文庫)

 国際連盟事務次長まで務めた(この本を執筆した3年後の大正8年に就任した)人なのに、この本にはみずみずしい若者の感性を感じる。もっとも、そのような晴れやかな心持ちの人だからこそ多くの業を成し遂げたということもあるのだろうし、新渡戸自身がこの本を書くにあたって若者のために参考になるよう心がけていたのかもしれない。「序」の最後にこうある。

ここにおいてわが輩は日々の心得、尋常平生の自戒をつづりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。

 時代がかった表現は文字通り時代を隔てているからだが、この箇所はややその味が強い方で、全体を通して読んだ感想としては意外とそのまま意味内容が入ってくる感じ。威張った感じはない。それよりも、時代を隔てていてもこういう人の考えにいきいきと触れることができるというのは、ちょっと信じられないというか、本ってすごいなあと今更ながらに思う。自分に穏やかな兄さんがいるような。

 私はごく近しい人たちによく「これ面白いよ」とあれこれ本を貸すのだけど、この本を薦めたことがなかったのはちょっと手落ちだったなと今反省した。