今週のニューズウィーク日本版/キリスト教徒の信仰内容


 ニューズウィーク日本版、2007-4・18号(4/11発売)。

 特集(というのかな)は、「素朴なギモンで解く 国際情勢入門 THE WORLD IN 2007」だった。
 41頁に挙げられている見出し一覧には、国連、トルコ、EU、ロシア、イギリス、フランス、米議会、ヒラリー、米外交、イラク、イラン、パレスチナアルカイダアフガニスタン、アフリカ、中南米、宇宙、北朝鮮、韓国、金正日、中国、台湾、インド、ミャンマーASEAN。よくもまあこれだけの内容をこれだけの紙数にまとめたもんだということもさることながら、日本の従来型メディアだけに触れていると、上に挙げたトピック群のほとんど自体にあまり馴染みがない人もけっこういるのではないかと思う。あるいはあってももっぱら日本との関わりという面からだけだったりとか。

 ざっと読んでとくにこれまでの認識と比べて違和感もなく、また新鮮な知識や洞察にも触れることができた。文章もなんか洗練されているというか(とくに記事末尾のまとめ方とか)。


 という特集部分については、私はまあ何か論評するほどの知見を持っていなくて、雑誌中ほどに別閉じになっている特別付録、「キリスト教の基礎知識」。これがよかったのでこの記事を書く気になったんですよ。


 B6の大きさかな、このサイズでたった15ページ、目次を抜きにすれば14ページに、カトリックプロテスタントだけでなく東方正教会まで目配りした内容。さすがにこれだけ凝縮されているだけあって、三位一体のことを(前略)3つで1つというものだ。というのはちょっと乱暴だなとか、十字架について必ずしも処刑をイメージさせるネガティブなものではないというのはちょっと語弊があるとか、そういうきずはいくつかあるけれど、そのあたりはまあ凝縮しまくっているんだなという頭で読んでもらえばだいたいのところはわかると思う。

 というわけで、キリスト教にちょっと関心があるけどよくわからんなという人は、この特別付録目当てにニューズウィークを買うとけっこうお得感がありそうですよ。


 というだけではあまり芸がないので、私なりに少し特別付録の内容を補足すると。
特別付録p4から

信仰の基本は、人間は生まれながらに罪を背負っているが、神(=イエス・キリスト)を信じることによって、誰でも救われるということだ。また信仰者は、神を愛し、隣人を愛し、敵をも愛さなければならないとされる。

 表現にもよるし間違いではないんだけど、これを信仰の基本といってしまうのは、ちょっと違うかなというか大きな誤解を招く余地がけっこうある気がする。


 私の理解では、

 人間は生まれながらに罪を背負っているだけでなく、自分の弱さによって、あるいは誘惑によって、罪をおかす。何度もおかす。神との契約を裏切る。にもかかわらず、神はそのひとりご(=イエス・キリスト)を犠牲≒契約の賠償金にすることによって、そういう愛によって、人間との契約をご破算にせず、しかも人間を契約の責任から救い出すという、ナイスなソリューションを選んでくださった。(ここでの人間というのは人類というよりも個人ですね。)
 そういう頓智の効いた、かつ愛情溢れた(なんせ自分を裏切ってる奴を助けるために自分を犠牲にするのだから)ことをしてくださった。
 だから、神を信じることによってというよりも、神(=イエス・キリスト)が既に救ってくださっている。
 しかしそのことを受け容れないということは非常に不幸だ、受け容れないということによって自らを裁いている、というような。

 なんつうか、信じるという立派な行いによって人間ゴウカクという認定をされるわけじゃないんですよね。その辺が誤解されがちだが。むしろ自分のダメさを自覚することによって、それを赦されていることがいかにありがたいかということがわかってくるという感じ。いやーホントあなたのおかげです!借金がこんなにあるのにナシってことにしてくれてありがとう!感謝感謝!もうなんでもいうこと聞きますよってに。って元々そんなんじゃ足りないぐらいだけど、だからこそほんと尊敬しあがめ奉ります。ははーっ……。他でもないあなた様のことしかもう尊敬できません。アーメン(←「まじで」という意味ね)!
 あとこれじゃあ自分のことを棚に上げて他人のことを責めるわけにゃーいかんわな、こんな自分が赦されてるのに。うおっなんかぶん殴られた。すげえ理不尽。でももうかたっぽのほっぺたもぶん殴っていいよ、ほれほれ。お前の悪意さえ別に気にならん。ていうか赦されてるって点では同じ立場じゃん、よう兄弟姉妹。お互いあんまり腹を立てずに、怒っても許し合って仲良くいこうぜ、だってそういう模範がいるんだから。できればあの人に顔向けできないようなことは今後はしたくないよな、まあ元々顔向けできるような立場じゃないのに赦してもらったんだけど。

 でもほんと自分ダメだな……もうやだな……ってそんなの自分が決めることじゃないか。っていうか自分が泣いてたら一緒に泣いてくれる、しかも代わりに命まで投げ出してくれた人がいた。名前はイエス、あの人。イエス様はキリストだ!えっ、キリストキリストうるさいって?あー、なんか「キリスト野郎」ってあだ名つけられちゃったよ。まあいいよ、それで。うん。キリスト野郎、英語でいうと「クリスチャン」。

 しっかしなあ、自分がだめなせいでイエス様っていうあんないい人を犠牲にしちゃったな。あんないい人だからだめな自分のために犠牲になってくれたんだな。でもある意味、自分がだめなせいであんな人と出会えて、しかもこんなお世話になったんじゃん。もうシンボルマークはそん時の死刑装置!十字架! あの方に悪いことしたなってことと、でも死んだのにそこから復活ってすげーっていつも思い出すために、もう十字架!こんなん忘れたらばちが当たるわ。あ、でもばちが当たらないために死んでくれたのか。じゃあばちは当たらないけど、こんな恩を忘れたら、自分が超愚かもんだな。超愚かもんだからあの人を犠牲にしちゃったんだけど、でもそのまんまじゃいたくないな。でも自分の駄目さを思い知らされるたびに、神さまのすごさを思い知らされるな。

 やっべーこんなこと言ってたら世間の反感買い始めた。そりゃあ自分に罪があるなんて思いたくないし、自分は偉いとか思いたいもんな。神さまに愛されてることに気づいてないから、実感がないから、神さまに頭下げるなんてしゃくにさわるんだろうな。いつか気づけばいいのに。でもなんか立派なことを言ってかっこつけてるとか勘違いされてるっぽい、逆なんだけど。え?自分も処刑される?まいったな、でもいいや。あの方のことを伝えて、それで殺されるほど反感買うなんてむしろお役に立てたってことじゃん。じゃああの方と同じ方法はあまりに畏れ多いんで、逆さでやってください、逆さ十字架で。

 すぐ上のが、キリスト教徒の基本的な思考様式といってまあ差し支えなさそう。まあ色々捨象しているし、いろんな理由で(三位一体の説明が難しいとか)正確さを放棄しているけど。


 少し話がずれるけど、よく祈る祈りは、「神さま、助けてください。このお祈りをイエス様のお名前を通しておささげします、アーメン」「神さま、ありがとうございます!このお祈りをイエス様のお名前を通しておささげします、アーメン」とか、そんなシンプルなもんです。「神さま、どうか○○さんを助けてください。(以下同文)」のときもある。
 会衆の前で、半ば他の人をも代表して祈るような場合はまた違うけど(ちゃんと何についてのことか言語化するし、他の人の祈りに心を合わせつつ。あと、もう少しセレモニー的要素が加わってくる)、ふだん目を閉じてだまって祈るときはこんなん。まさに祈るような思いで祈っちょるわけです。それで構わないと思う。

 もっとじっくり祈りたい時は、たとえば最近こういうことがあって嬉しかったですありがとうございますとか、このことで悩んでいますどうしたらいいか教えてくださいとか。

 一つのポイントは、自分が願っている通りにしてもらえるわけではないということ。たとえば子供がおやつを大量に欲しいといっても、その通りにしてもらうのが子供にとって良いわけではないのと同じように。

 祈りの心がけに、結城浩さんがもっと詳しく書いてくださっています。


 そんな感じです。ご参考になれば。