なんか「差別」の話題が最近ネットでホットみたいですが


 以下のようなスタンスをとっていればだいたいはあまりこじれずに済むんじゃないかなと思った。


いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。(1)(2)(3)それぞれに問題がある。

 この(1)は相当じつは難しいというか、(a)前提としている事柄の正確さ(b)推論が根拠とする論理法則の妥当さが十分に吟味されないと、(c)推論によって得られた結論的な事柄の正確さはまったくあやふやなんだけどね。



 もちろん実際の対話に際しては、先入観でもって相手に勝手に他の人のイメージを重ね合わせた上で相手のいっていないことについて非難したりという行動は避けたいと思っています(自分もそういう攻撃に何度も困ったことがありますし)。先入観はできるだけ除外して相手の言葉に向き合いたいと思っています。


人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえると思う。それに、誰か他人の人格を断定することによって、その相手との人間関係はむしろ崩壊してしまうのだろうと思っています。


 私の考えとしては、エントリの向こうには常に人格が存在する、たとえ検索エンジン対策や宣伝目的で機械的に生成された無数のエントリであっても。ただ、人格そのものは評価の対象としないでおき、まずは言説それ自体に着目する、というのはまあ謙虚で理にかなった方法だと思う。

  1. 具体的な言葉、行動
  2. 思考のパターン、発想、あるいはもう少し大きく世界観
  3. その人のコアな部分、人格そのもの


 私が誰かと向き合うときには、おおよそ上のような3つのレイヤーに分けて相手のことを認識している。3と2を区別して考えることが重要だと思っている。

 ここで「誰かと向き合う」というのは、文字通り対面してという意味に限らず

  • ある人やある言動について思うとき
  • ある人とコミュニケーションするとき

 といった広い意味で理解してほしい。


 「これだから○○は……」というのは、最終的なぼやきとしてしか機能しないし、その前に一応は色眼鏡を外して、可能な範囲でニュートラルに相手を受けとめようとする姿勢があれば、相手への差別にはならないで済むんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。


 あるいはもう少しモヒカン族的色彩を強めるなら、

 「私は、あなたの○○という属性について、既に○○は××だという偏見を持ってしまっている。しかし、あなたが××だと決まっているわけではないから、あなたの話を聞く前にそう決めつけてしまいたくはない。どうか話を聞かせてほしい。もしあなたが××であるような主張をするなら、私は、××という在り方は良くないという主張をするだろう。もしあなたが××でないなら、それはたいへん私にとって嬉しいことだし、改めてその偏見が偏見にすぎないと認識するだろう」


 という姿勢を(どこまで言語化するかは別として)伝えようとすると思います。


 この姿勢が通じないのは、〈相手が洗脳的手法を用いる場合〉や、〈そのような私の姿勢そのものが、××である○○としての相手の限界をあぶり出してしまうので相手の激しい怒りをかう場合〉だろうな。


 前者の場合には、「君子危うきに近寄らず」で。

 後者の場合には、まあ思いやりが必要なんでしょうね。その思いやりもまた侮蔑にはなってしまうけど、年齢にかかわらずまだ幼い人というのは、実感としては存在するわけだからある程度は仕方ない。