ululunさん、おつかれさまでした


煩悩是道場 - いじめられっ子にならないようにする方法を語る事では、いじめを無くす事が出来ない



私がいじめを受けてきた理由は、家庭が経験なローマンカトリックの信者であるというのがあります。

毎週日曜に礼拝に行き、嘘をつかない、叩かれてもたたき返さないというような事を物心つく前から教え込まれてきた私は気持ちの悪い奇異な存在に映ったのだ、と現在の私は分析している。

そりゃあそうだろう、叩こうが何しようが絶対抵抗しないのだから面白がって殴ってくるのは当然だと言える。どんなに彼らが苛烈ないじめをしてきても私は日曜のミサで彼らを許して貰うよう神に祈り、その事が発覚してさらなるいじめを招いていた。


 そうでしたか。
 ululunさんも大変でしたね。お気持ち少しはわかります。そうした(と、大づかみな書き方をしますが)構造を、何か理論的帰結としてだけではなしに、長い間の経験から私も感じています。煩悩是道場 - 何故のび太はジャイアンにいじめられるのかのコメント欄の状態も、その一つの現れですね。


 というか、彼らの、自分からみてあの理不尽な情動、常軌を逸した激しい憎悪や嗜虐的な喜びを、どう理解したらいいのか、というところで、山本七平中島義道なんかの本を読んでようやく了解できてきたというところ。

 私自身は、自分が辛いとか悔しいというのも勿論あるのだろうと思いますが、それよりも「なぜ人間がこんな言動に出ることができるんだろう」という大きな疑問と嘆きみたいなものが自分の中で大きい気がします、別にメランコリックな意味ではなく。ただ、そのことを相手に率直に問いかけることこそが、劣等感を刺激し激しい憤りを招くのも経験的にわかってはいるのですが。

 そもそも他人との上下関係、優越感とか劣等感で意見や物事を把握するのが彼らの価値観なんですよね。モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」などで書いているのは、まさにそのあたり(←またおおざっぱな話)のことでした。彼らにはこういう思考が根底にあるからこんなことができるんだ、ということを理解できて初めて少し楽になるというか。


 少し話が変わります。


私がいじめられない為には私がカトリック教徒である事を隠すしか無く、子供の頃から染みついてきたそれを隠すなどという高等戦術に出る事が出来るようになるには相当の時間と葛藤が必要であった。


私はカトリック教徒であるという事を隠す事でいじめから逃れられる、とは思う。

しかしそれが果たして「良い」事なのかどうかはわからない。

 文脈からはそれるかもしれませんが、ここは以前から私もずっと考えているところです。


 弱さのゆえに他人を傷つけるという行為を、ややもすれば行ってしまいがちな人に、その行為の機会を与えるということそのものは、いいこととはいえない。

 しかし、だからといって、相手にそのような悪い行為をさせないための配慮をするということは、相手に対する大きな、しかも隠れた侮蔑にもなりかねない。これは別の意味で、いいこととはいえない(と、考えていることも、そもそも摩擦の原因でもあるんですが)。


 「配慮」もせずにすみ、「悪い」行為に陥る機会も与えないですむような、適切な距離を保つことが重要……というのが一つの答えですが、小学校のクラス内などでなかなかそうもいかない場合はどうしたらいいか。

 その学校には行かないという選択肢が存在する。ということは、周囲の親なり大人なりが後ろ盾にならないと、なかなか意識にものぼらないと思う。


 ……全然まとまりませんが、とりあえずここまでの話として載せておきます。それにしても、このあたりのテーマをご自分の実際の経験として(おそらく書くことによる強い反発も覚悟しながら)正面から書かれているululunさんはすごい。


追記:
「いじめられっ子にならないようにする方法を語る事では、いじめを無くす事が出来ない」リンク先読んでないけど、それは全く同感というか当然。
 臆病に「空気」を読む子供が増えて、「空気読め」という圧力がさらに高まり、ターゲットとされた子供がさらに悲惨な目に遭うだけ。
 「lifehackを教えるよ」とかそんな呑気なもんでは全然ない。

 恐怖による支配の中で自分だけは犠牲にならない方法を追求するのは、支配がさらに強化されるだけ。そういう体制を緩和する方法や、緩和できなくても他への逃げ道を作る方法を考えないと。