時事問題としてでなく


finalventの日記 - そういえばいじめで思い出すが

 わたしは子供のころにいじめられた側だったし、おかげでそこから人間と社会を学んだ。私が学びえたかすかなことは、ある種の、卑しさを嫌悪する感覚だ。decencyというのだろうか。日本語でなんというかいまだわからず戸惑う。自尊心とも誇りとも品性ともちょっと違う。卑しさを嫌悪するだけではなく、卑しさを洞察する感覚でもある。うまく言えないので、言うだけ誤解されるのだろうが、私は自身を弱い人間だと思うが、いじめの関係の人々のなかに、ある種の悪への弱さを見る。教条的な正義を語る人にもそれを見る。ここはうまく言えないのだが、いじめの関係性のなかにはある種の性的な倒錯的な快感と恐怖のような支配への屈服があるように思う。私は、その屈服がとても嫌なのだ。この感性はもう幼稚園児のころからがんとしてある。いじめる側、傍観する人々へのおぞましさの感覚だ。ではいじめられる人は? ここがうまく言いづらいのだが、子供ながらに思ったのは、「私をいじめるなんておぞましいことが許されてはならない」とういものだった。

 まあ、うまく言えない。

 上の箇所を読んで、自分が似たようなことを書いたのを思いだした。

 やや話が逸れるが、付け加えるなら、なぜ傍観者の沈黙が犠牲者を苦しめるか。それは、(1)通用すべき価値観が確保されないことに対する不条理感と、(2)(自分がこのような犠牲になっている事態を他の人は肯んじるのか)という無力感・無価値感だ。ここで通用すべき価値観というのは、私の言い方をすれば「普遍的な価値観」だ。

 (1)すべての価値はその価値に応じて尊重される、すべての行動はそれにふさわしい報いを受ける、そのようなフェアな世界を望んでいるから、そうでない扱いをされることに不条理感を感じるのであって、犠牲者を苦しめるのは、(2)自分と関係がある人が少ない・助けてくれないという無力感・無価値感だけではないだろう。


 ここは書きながら、(1)と(2)の関係とかそれを敷衍した次の段落がちょっと論理的におかしいみたいな感覚を持っていて、あまり厳密にも書けないなと思ってそのまま更新した記憶があるのだけれど、どこがどうおかしいと思ったのかは忘れてしまった。

 今の私の頭で補うなら、(1)すべての価値はその価値に応じて尊重される、すべての行動はそれにふさわしい報いを受ける、そのようなフェアな世界を望んでいるからというのは、もちろん、人間が人間であるということだけで尊重される、ということを含む。たぶん、そんな当たり前のことは分かる人は書かなくても分かるし、分からない人は空虚なお題目としてしか頭に入らないだろうと思って書かなかったのだと思う。


 思い出した。(2)で書こうとしていた内容は、(1)の内容とかなりの部分が重なるということだった。重ならない部分についてはあまり立ち入りたくない、どちらかというと立ち入りすぎてしまうので。