自信と謙虚、そのパラメーターとは違う平面上で


 読みづらいとは思いますが整えるのもむずかしいので走り書きです。



あと悩む人は自信のない人でもあると思うのですが、世の中で成功するための大いなる秘訣の一つに、「無根拠でもいいから自信を持つこと」があるように思います。そりゃあり得ないだろ、というくらい無根拠に自信のある人が得てして成功を勝ち取るものです。


 まあ事実としてはそう。「べき」論ではなく。


 ただ、無根拠な自信を持つよりも、とことん自信を失って一回きちんと折れたほうがいい気はしている。「世の中で成功する」「成功を勝ち取る」ことが、それほどの、あるいはどこまでの価値があるか(まあ私が世の中で「成功」していると見るかどうかは見る人次第として)。


 自信といっても、他人と比べての自信とか、世間の目を基準にしての自信とかいろいろある(ベン図的に排他的な関係にあるわけではなく)けど、「世の中で成功する」「無根拠に自信のある人」というのは、見ていると、だいたいが他人と比べての自信。


 他人と比べて優れているかどうかとか、世間からみてどういう位置にあるとか、そういうことを(自分も他人も含めた)人間を判断する基準にするという思考の枠組みから自由になるには、そうした相対的なあれこれとは全然別に屹立する、ある絶対的な存在への畏怖の念が別の判断基準として存在しうるという発想が必要かもしれない云々。堅苦しく書いてみたが要するに、たとえばお天道様とかそれ系。


 一回きちんと折れたほうが、という話に戻って。
 たとえば

完全に我を折られて,しかも朗らかにいたい

自分の知と経験のすべてをただ疑念と無価値の深淵のなかに落としこむことが神の愚かさであり、人の知に勝る


 自分も昔この周辺の話題書いた気がするけど、なんか読み返したくないなあ。最近だと夏のひこうき雲 - 映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思うとかだ。これの『苦悩の存在論』とか。あと、


その絶望をなんと呼べばいいのだろうか。私は、それは、我執だと思う。


 問題意識をリンク先の話題に戻すと、RPGのように、あるキャラクターに必要なことをさせていくというのでもまあいいのかな。それですべてが解決するわけではないけど。むしろそれで解決されないことについての話が出発点というか。