信仰関連


 高橋照男さんのブログの昨日付の記事がよかったのでここに部分的に引用します。

 引用の前に少しだけ。

 ここで書き始めた最初のころ、私がキリスト教徒ということをとくに記さずにここで書き始めた。そのせいだけでなく、キリスト教徒でない読者に対して閉じている印象を抱かせたくないためもあって、ネットではその後も意図的にそういうコミュニティからはやや距離を置いている。
 のだけれど、クリスチャンのかたでネットで書かれている方は、気がついてみるとけっこういらっしゃる。それぞれのキャラクターとスタンスから、皆さんよい働きをされているなあと頼もしくありがたく思う。
 なので、私などがあれこれ書かなくてもいいんじゃないかと思ってしまっている面もあるのだが、それぞれのかたが様々な視点から書いてらっしゃるということは、逆にいえば、欠点の多い書き方をする私も、私なりに自分の考えを書いていいし、また、それはそれで何か少しは役に立つのかもしれないとまた思い直すようになった。

 それはそれとして、今回引用したいと思ったのは、単純にいえば、はてなブックマークのコメント欄にピックアップしきれなかったからなんだけど、それだけでなく、はてなブックマークにクリップするよりももう少し強いインパクトを持ってご紹介したくなったから。

 改めて今回書くことでもないだろうし、こう書くのはまた例によって私の失礼な面が出てしまうかもしれないけど、今回ご紹介したからといって今回の記事や筆者である高橋照男さんのお考えのすべてに全面的に賛同するというわけではありません。ただ、考えが一部違っていても、あえて議論するべきと思える場合とそういう意欲がとくに湧かない場合があるということです。引用部分に異論はありません。



いまだかって神を信じない方が信じるよりも「よりよい」という論理にであったことがない。よりよく生きてよりよく世に貢献したという話を聞いたことがない。神を信じないほうが賢くかつ倫理的にも正しく生きられるという話を聞いたことがない

 いま引用しながら思ったのだけど、あえて言葉にするとそういう、神を信じないほうが賢くかつ倫理的にも正しく生きられるという考えを持っている人も日本ではけっこういるかも。信仰がすべて脳内物質による快感に還元される、と根拠なく信じ込んでいる人とか、およそ思想というものを無力化・相対化し斜に構えるのが科学的な態度と思っている人とか。そもそも「正しさ」の追求は放棄するべき、という語義からして矛盾した考えに(意識の上では)陥っている人とか。まあそういう考えに強固にはまってしまっている人に対するアプローチはたぶん私の終生の課題なので、簡単に片付けるものではないとして。



ではどの神にすがるべきか?。まず手当たり次第に全部の神に祈るべきだ。ただ、そこは常識的に「一流の神」を選ぶべきだ。何せ世の中には八百万の神がいます。全部には同時に祈れない。一流の神のランキング順にすがりつくべきだ。実験すべきだ。受験と同じで「単願」すべきだ。なにせ神様どうしで競争だから「単願」しないと門を開けてくれない。●ではどの神が一流か。あとは言わない。なぜか。それは自分で判断し、決断すべきものである。自分で選ばないと満足しない

 このあたり高橋さんのユーモア炸裂ですね。



神は人間に対して「祈る」ことを教えるために、また「人間常識はたよりない」ことを教えるために、原因不明の苦難を下す。その人が最も大切にしているものを「撃つ」。それによって人間に万策尽きさせ「ギブアップ」させるのが神の真の狙い。一見イジワルと見える神だが、頑固な人間にはそれが最良最高に賢い方法。神にとっても辛い方法●苦難は罰でなく愛。それによって不思議な回り道でも「本道」に導かれる。時間はかかるがいつかは直る

 同意できない人や、強い反発を覚える人もいるでしょうけど、私は同感です。優しさというのはただちやほやすることでなく、真に相手のことを思いやること、それができるのは神だけ。


 人生の苦難のときに励ましになる聖句も引用されていました。これは高橋さんの記事日記と感想 孫たちの苦難を直接ご覧になってください。



声楽はすごいなー。よい声は天からの賜物だ。あの息づかいがたまらない。しかし、カレーラスにしてもアレッド・ジョーンズにしてもあの美声は人生のほんの一時期だけのもの。悲しいが衰えていくものだ。マテ、一瞬でもよい、一瞬でも神に届けば神は永遠に覚えていて下さるのだ。人生はあの高い空の白い雲のように一瞬の形だ。少し目を離すとその雲はない。でもよいのだ。神が造り神が壊す。人間には知られなくても神には知られている。それは一瞬の姿だ

 「夏のひこうき雲」のsummercontrail略して左近、自分のブログの名前へのスーパー我田引水のときがやってきました。
 いや、でもまったくおっしゃる通り。真理であってしかも人を励ます言葉ですね(話を省いていうけど、真・善・美は一致するしまた一致するものを真・善・美と呼ぶのだろうと以前から思っています)。真理は我らを自由にスルー*1



蜘蛛の巣にかかった蝉。この蝉はこういう死に方をするとは思わなかったのだろう。でも死は死だ。如何なる死に方でもよい。かっこ悪い死に方でもよい。天寿をまっとうしての大往生でなくともよい。若くして死ぬのでもよい。健康で長寿が人生の目的ではない。神の御用を一瞬でもすればよい。イヤイヤそんな高尚なことが出来なくてもよい。人には知られなくてもよい。神に知られればそれでよい。それが成功の人生。悲しい時に泣けば神は知ってくださる。

 私はすでに世に勝っている、というアレですね。塚本訳ならこれらのことを話したのは、あなた達がわたしに(しっかり)結びついていて、平安を保つことができるためである。この世ではあなた達に苦しみがある。しかし安心していなさい。わたしがすでに世に勝っている。


 単なるはてなブックマーク浮雲)の補完のつもりが長くなった。以上、ご紹介でした。皆さんもよろしかったら、なんだかわからないけれど苦難の中にある高橋さんのお孫さんのために祈ってください。