映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思う


 今日は「スーパーマン・リターンズ」を観た。先日は「ゲド戦記」を観たが、まず重要と思うことから書いていきたい。「ミリオンダラー・ベイビー」を観たのは4月のことだからもう4か月ほど経つ。まとまらないので書ける範囲で書いてしまおうと思う。

 映画のあらすじというか結末に触れるので、これからご覧になる方はこの記事をまだ読まない方がいいかもしれない。ただ、私としてはこの映画を観ること自体お勧めできないので、気にせず読み進めてもらいたい。


 その日はたしか土曜日だった。ベッドでごろごろしながら『苦悩の存在論』などを読んでいた。

苦悩の存在論―ニヒリズムの根本問題

苦悩の存在論―ニヒリズムの根本問題

 夜、ふと思い立って「ミリオンダラー・ベイビー」のDVDを借りて観ることにした。知る限り評判はよかったし。


 思い立ち、頑固なまでにボクシングにひたむきな努力を重ねる、貧しい女性。それをサポートする、風にさらされてざらざらになったような二人の老人。シンプルで静かな、美しい音楽。

 途中は省略する。


 主人公と言っていいだろう、ボクサーの女性はあるきっかけで脊髄を損傷する。たしか、首から下が全く動かない。声もほとんど出ない。
 順調に試合を勝ち進み、喝采を得てきた女性にはその状態に我慢がならない。生きる意欲も湧かない。

 もう一人の主人公、クリント・イーストウッドが演じるトレーナーは、そばにいてやり、その女性でも通えるような大学をパンフレットを取り寄せ探したりしている。
 おそらくはそのことにも、女性はまったく我慢がならない。

 家族は弁護士とともに病院にやってきて、優しい言葉をかけながら、これまでの試合で稼いだ財産を奪おうとする。その書類に口で署名したか、結局しなかったかは忘れた。私にとっては重要な問題ではなかったからだろう。女性の主人公が家族とそのような関係だったということは把握した。途中、女性が家族に殺されそうでひやひやした。


 女性は弱々しい声で元トレーナーに自分を殺してくれと頼んだ。トレーナーは断る。女性は舌を噛んで自殺を図った。
 救命措置がとられた後、女性は再度舌を噛んで死のうとする。鎮静剤が打たれ、舌も噛めなくなった。


 クリント・イーストウッド演じる元トレーナーは、どこからか持ってきた薬剤を注射した。(点滴に入れたのではなかった気がする。)
 女性は意識がもうろうとしたまま、死んでいった。


 女性の行動や元トレーナーの行動に白黒を付けて簡単にその当否を判定することはできない。だが、映画だから言えるのであえていうのだけれど、あれはまったく間違っていると思う。映画として彼らの選択を美化するような演出だと思うが、その意味で害悪が大きい。だから観ないほうがいいと思う。


 もてはやされボクサーとしての絶頂にあったのが、試合後の反則で背骨を折られてほとんど動けなくなり「こんな風に生きていてもしかたがないよ」と小さな声で訴える女性。その絶望をなんと呼べばいいのだろうか。私は、それは、我執だと思う。


 自分の置かれている環境ゆえに自分を無価値だと呪い、楽しくないとつぶやき、死んだ方がいいと思いつめる人は、同じ状況にある人すべてに「無価値な存在で、つまらない生活を送っており、死んだ方がいい」という烙印を押している。そのように自分と他人を裁くだけの知性と能力と権威を持った人は、どこにもいない。


 自分という存在が他人から高く評価されないだとか、自分の思い通りにできないという理由で、自分という人間を殺すという行動。何かを思い通りにできないからといって、その思い通りにならない相手を怒りによって殺すという発想。そうした行動や発想は、「他ならぬ自分については自分がどのように粗末に扱ってもいい」という考えを前提としている点で、まったく不当だと思う。


 マタイによる福音書19章19節には、「隣の人を自分のように愛せよ」という"神の掟"が紹介されている*1。自分のことも隣の人のように愛しなければならない。

 私はまた、エリザベス・キューブラ・ロスの『死ぬ瞬間の対話』の以下の箇所も連想した。端的には、質問124番目(昭和55年の版で91頁)のところ。

124 自殺がなぜそんなにいけないんでしょう? それがかれのコントロール維持の道であるなら、いいんじゃないですか?

 末期患者と協働するこの仕事で、わたしたちが学んだ一事は、決して審判的であってはならないということです。患者が自殺を考えるとき、それは正しいか間違っているかの問題ではありません。わたしたちにとってそれは、なぜこの人が自殺を望んでいるかという理由の問題なのです。自分の死についてその時期と死に方でさえもコントロールしていたいという、このおそろしいまでに強い欲求はどこから来るのか、それが問題なのです。もし患者が死と死ぬことを恐れていないならば、かれはこのコントロールを放棄し、自分の自然の死を待つことができるはずです。たいていの患者は、この境地に達するには、ほんのわずかのカウンセリングで足りています。

 少しずれるがもうちょっと概括的な記述としては、たとえば以下の部分。

112 患者によっては、まともには死の現実に直面し得ない、もともと"プーア・リスク"な(自殺する懼れがある)人もあるのでしょうか?

 そうです。いつも、明日があるといった生き方をしており、その人生でひとつも大きな悲劇や喪失に直面したことがなく、自分の死について真剣に考えてみたことがないといった人々があります。こういった人が末期疾患にかかり、かれの存在そのものをおびやかす突然の悲劇的事態に見舞われると、あるいは深刻な激しい抑鬱状態に落ちこむか、徹底的否認へ逃げこむかします。こうして治療、相談、生命の予後の管理などがいちじるしく困難となります。そうした患者のあるものは、あらゆるものを四六時中自分でコントロールしていなければならないという内的な欲求がきわめて強いのです。ですからかれは、末期疾患を告げられると、これまで保持していたコントロールを失ってしまったと感じるのです。そうした場合、かれにとってコントロールを恢復するひとつの方法は自殺を考えることです。
 この最後のタイプの患者に対しては非常に有効な”テクニック”がいくつかあります。看護婦や医師のおこなうどんな手続きについても、必ず事前にこの患者と相談してからおこなうのです。
 (中略)
 こうした、環境の些細な操作をつうじて、患者が急速に改善されていくケースが非常に多いのです。この方法は、患者に、かれがまだ大切な人間と見られているとの感情を与えるために、看護側から故意的におこなわれるのです。こうした患者には、技術的に可能なかぎり、できるだけ多くの意思決定機会を与えてやるべきです。

 上の引用箇所を読まれたかたは違和感を感じるかもしれないが、回答者のキューブラ=ロスは実際に多くの末期患者を(亡くなるたびごとに個人的な痛みを覚えながら)看取ったプロフェッショナルだということを念頭に置いてほしい。実際にまだ大切な人間と見られているからこそ、そのことに気づいてもらうための技術的なアプローチが模索されており、その実践が貴重な、文字通り貴重な例として共有されているということ。

死ぬ瞬間の対話

死ぬ瞬間の対話


 長くなるが、映画を観たとき思ったことをもう少し。「ミリオンダラー・ベイビー」を観た日の日中、『苦悩の存在論』を読んでいたと書いた。ついでに書くには重要すぎる内容だが、少し触れておきたい。

 自然主義的犯罪学的見解にたいして、シェーラーは、犯罪者は自分の罪の償いを要求する権利をもっていると考えた。「自分自身の死」を死ぬという人間の要求を告知したリルケもそうだった。同じように、人間は自分の苦痛を苦しむ権利をもっている。そこで前提とされていることは苦痛が現実に「自分の」苦痛であることであり、宿命的に避けることのできない苦悩を、実存的に意味豊かに苦しみ抜くことが大切だということである。

 映画の中でヒラリー・スワンク演じる女性は、その並々ならぬ努力(と、あるいは能力)によって尊敬と栄誉を勝ち取る存在として自分を認識していた。事実そのことを証明した。が、突然肉体的には極度に無力な存在となった。自己イメージと現実との落差に、不運と情けなさに、とことん苦しむという経験こそが、人間として生きる上で、決定的に重要なことだったと私は思う。彼女はその経験を得られないでついに死んだ。早すぎた。
 態度価値という概念を思い出したが、長くなりすぎたのでここでは書かない。


 Wikipediaミリオンダラー・ベイビー - Wikipedia 論争の項では似たような議論が紹介されている。今回記事を書くにあたってはじめて参照したが、さもありなんという感じ。


 話をクリント・イーストウッド演じる(元)トレーナーに写す。彼は、自分が元ボクサーの女性の絶望に対して、力になってやれないというつらさゆえに、女性を殺したと思う。もしそうならば、苦しんでいる女性のためというのは欺瞞でしかない。単に女性との関係で自分がいたたまれないからということだ。
 そして、女性を殺した後も、彼の人生にはまだ価値があった(あるいは、そうした経験ゆえにいっそう)。失踪したという設定は、彼の責任の取り方をあいまいにしテーマの焦点をシンプルにするためだろうか。何にせよ、あれで元トレーナーも死ぬのなら、それはむしろ無責任な在り方だと私は思う。


 結論を急ぐ。映画、しかもフィクションの作品に対してあれこれ登場人物の行動の当否をいうのは野暮だという考えも成り立つだろう。しかし最初に触れたとおり、フィクションだからこそ行動の当否をあれこれいうことができるのであって、そうでなければほとんどの場合沈黙するしかない。常にということではない、このテーマについては、ほとんどの場合沈黙するしかない。


 では仮に、私の身近な人がヒラリー・スワンクの演じたような立場にいて、自殺を強く訴え失敗していたらどうするか。

 「汗かいてない?温かいおしぼり気持ちいいよ」とすすめて顔を拭いたり(相手は動けないので)、あるいはほうじ茶でもついでみる。
 それとともに、ノーベル賞受賞者ワンガリ・マータイのできるだけ正確な真似(つまり、少しだけ誇張した真似)を試みつつ、ニヤッと笑ってこう言おうと思う。

 「 MOTTAINAI.」

 もちろん、それが通じなさそうなら、他の方法で楽しませることを考える。

 こうした試みは、クリント・イーストウッドの演じたような立場にいる人に対してもまったく同じ。


 ただ私はカウンセリングの専門家ではないので、たぶん、役に立たない。ヒラリー・スワンクは自殺するかもしれないし、クリント・イーストウッドも失意と自責の念を抱えて失踪するかもしれない。その自分のまったくの無力さへの無念の思いこそが出発点だし、そうあるべきだろうなと自分では思っている。いまだに。

*1:ここでは比較的平易な表現を多く用いている、塚本虎二訳によった。