今日は世界難民の日らしい(30へぇ)


 新聞を読んでいたら、緒方貞子さんの講演会の模様と質疑応答の模様が掲載されていた。これが広告特集だというからまず15へぇぐらい。

 そういえば緒方貞子さんはクリスチャンだと聞いたことがあるけど、どうなんだろう、まーありえるなあ、「他人のことに口を出して自分の正義を押しつけることこそ迷惑」だとか「正しい価値観など存在しない、単に時代によって変わるもの」だとか、日本でよく見聞きするそういう考え方からは、人道問題に関する国際的な取り組みに関わるモチベーションなどあるわけがない、逆に考えれば、そういう活動に取り組もうとする人は別の何らかの思想的背景を有していておかしくないと思いながらざっと読んだ。4つの事例のケーススタディとか。

 各事例をふーんふーんと思って読んだ。横の囲みに「難民とは……」というコラムがあったので引用する。

難民とは……

【難民】
 難民とは、私たちと同じように日常生活を送っていたのに、戦争や迫害などさまざまな理由で、身に危険が迫り、自国(国籍国)から逃げ出さなければならなかった人々です。私たちは通常、基本的人権の保護など自国政府に頼ることができます。しかし、難民となった人々はその保護を受けることができません。

【国内避難民】
 「難民」は国境を越えて初めて「難民」と定義されます。しかし、国内にとどまりながらも故郷を追われ、難民と同じような状況にある人々を「国内避難民」と呼び、近年ではUNHCRの援助対象者に含まれます。

 改めて読んでみるとなるほどという感じ。漠然としたイメージよりこうしたクリアな定義こそが理解と思考の助けになる。説明の内容からしてUNHCRによる文章に思えるが、確認までは面倒なのでしなかった。あとで気が向いたら見よ。


 緒方貞子著書『紛争と難民 緒方貞子の回想』という本の紹介もあった。防弾チョッキを着たグラニー(おばあちゃん)がイラク、バルカン、アフリカ、アフガンで危機に対処した感動の記録とのこと。


紛争と難民 緒方貞子の回想

紛争と難民 緒方貞子の回想

 こうした話題に触れるとしばしば思うのだけど、あえて失礼な言い方を避けずに書くが、おばあちゃんが一人うろうろすることで、世界平和のため何の役に立つのかけっこう疑問だ。明石康さんもそう。一発拳で殴られたら死んでしまいそうなおじさん(ほぼおじいさん)が、銃弾が飛び交うような地域のことで何をできるんだという疑問はある。(人道援助というとどうも、現地でせっせと救援物資を荷下ろししたり運送したり、あるいは相手を上回る武力で威嚇して武力行使を制止するというイメージがある。)


 だけど今読んでいてしみじみ思うに、大きく二つ、役に立つんだろうなあと。

 一つはアイディア。ユーゴスラビアの分裂にともなうバルカン難民について「共生の想像」プログラムを立ち上げたという。そういえば「立ち上げる」というのは日本語としておかしいという議論が以前あったがそんなことは関係なくて、「実際に異民族と日常生活において共存している様子を想像させる、そのために少しずつそれに近い状態を作り出し慣れさせていく」というのはうまいなあと思った。カギ括弧内は別に引用ではなく、私なりの簡単な要約です。

 もう一つはネゴシエーション。際だたせるためあえてこちらも外来語で書いてみた。紛争両当事者との交渉は、何も力を背景にすれば済むわけではない。もちろんUNHCRは国連の機関だから、一定の権力をバックにしていることはしていると言えるわけだが、それだけではなく、交渉の相手となる当事者の前に立つ人間が、その判断の確かさや公正さを追求する態度、自分ともう一方の当事者をフェアに扱うという姿勢について相手から信頼されなければ、交渉は成り立たない。簡単にいえば、知性と誠実さへの(紛争当事者の)信頼が、説得力の源泉であり前提であり、また最後の切り札となるわけだ。そして知性と誠実さは、肉体的なタフさを持たないグラニー(おばあちゃん)だって兼ね備えることはできる。もう少し皮肉な言い方をすれば、政治力というか。根回しともいう(ちょっと違うけど)。


 なるほどねえと思ってそこまでだったら最近の私としてはそれで終わってとくにブログにも書かなかったのだけれど、紙面下部をみるとUNHCRの広告があり、そこに「世界難民の日 6月20日」と書いてあった。へぇ〜。
 なんで?と思ってその下の細かい説明を読むと、「2000年12月の国連総会で定められました。」いや、だからナゼユエニ。


 つづいてこう書いてある。

今年のテーマは「希望」です。未来への希望をもって苦難に立ち向かっている難民の人々に思いをはせ、私たち一人ひとりが「自分に何ができるか」をお考えいただければ幸いです。

 あー、希望だいじだよね。皮肉とかでなくそう思った。

 ていうか、自分が希望もてない状況にいる人でも、希望をもって自分の状況に立ち向かっている人に手を貸すことはできる。これってすごいことだよ。
 もっといえば、自分が希望もてなくても、他人に手を貸すことで、他人に希望を与えることができる。なんということだ。メイクドラマ、メイクミラクルじゃん。
 今思い出したのは、さっき読んだアイデアマラソン道具術(12) 支援の道具としてのお金。高邁な理想など(たぶん)もたなくても、一人の靴磨きの少年を中華料理店の料理長に育てることぐらいはできる。まして高邁な理想なんかをもてたら、さらにナイスな結果が。


 じつは世界難民の日の説明の前に、広告部の中央に大きな文字が踊っている部分に目を奪われていた。

 今、支援を必要としています。
スーダン西部/ダルフール地方
2003年以降、約200万人が国内避難民となり、約21万人がチャドの難民キャンプに避難し、緊急援助を必要としています。

 この地域で起きていることについては以前から関心を持っているので、書いてあると目がいく。ほかにも、スーダン南部、東ティモールパキスタンのアフガン難民、タイのミャンマー難民、ネパールのブータン難民のことが項目として挙げてあった。「スーダン西部/ダルフール地方」と「東ティモール」だけに、「緊急援助を必要としています」という表現が使われていた。


 他には日本UNHCR協会がどういう組織かという紹介があった。日本でのUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の、民間からの公式支援窓口らしい。

 UNHCRに寄付するかどうかは別として、ちょっと見てみた。日本UNHCR協会 世界難民の日の由来を見るためだ。リンク先のUNHCR Japanに説明があった。


この日は、もともとOAU(アフリカ統一機構)難民条約の発効を記念する「アフリカ難民の日」(Africa Refugee Day)でしたが、改めて、難民の保護と援助に対する世界的な関心を高め、UNHCRをはじめとする国連機関やNGO(非政府組織)による活動に理解と支援を深める日にするため、制定されました。

 へぇ〜。わかったようなわからないような。6月20日にOAU難民条約が発効したから、ということだろうか。まあ、30へぇぐらい。

 そのページ内にかっこいいアニメーションGIFがあった。おっさんや少年、赤ちゃんやおねえさんのアップの写真が次々と映し出され、顔とともに英単語が表示される。

strength

respect

hope

courage

dignity

 ウヮーオ。ちょっとしびれる。
 何がかっこいいかって、マジでこれらを追い求めていること。あるいは、これらを難民に取り戻させるための努力をマジでしていること。まじめ、かっこいい。

紛争と難民 緒方貞子の回想

紛争と難民 緒方貞子の回想

 ナイス・ヘルメット、グラニー!

(あんまり具体的な仕事ぶりはまだ知らないんだけど、とりあえず)