正しい信仰とは盲信を強要するものでも理性を制止するものでもない


愛・蔵太の気ままな日記 - (補足その1)関東大震災における虐殺された朝鮮人は何人?(補足)(2003年9月13日)

誤解のないよう補足しておきますと、このネタに関して一応終了したのは、別に朝鮮のかたがたから圧力があったわけではありません。しかし方向が宗教論争になりかねないのがどうも。たとえば、キリスト教における神を信じる者は、聖書に書かれていることがすべて本当にあったことかどうかについて疑ってはならないんだろうけど(多分。違いますか、キリスト教のかた?)、俺の姿勢は歴史の中の人物としてイエス・キリストを考えたいというようなものなので。

 もう3年近く前の記事でもあるし、カトリック信徒のあんとに庵さんがコメント欄にもよく登場されているので、愛・蔵太さんにお答えするという意味ではとくに必要ないかもしれないけれど、とりあえず書いておきます。元の記事の本題には触れません。

たとえば、キリスト教における神を信じる者は、聖書に書かれていることがすべて本当にあったことかどうかについて疑ってはならないんだろうけど(多分。違いますか、キリスト教のかた?)


 はい、一応「違う」と言えると思います。

 この問題について夏のひこうき雲 - グレッグ・イーガン『ディアスポラ』、ごく簡単にという記事で、少しだけ引用したページがあります。

「主イエス・キリスト」4月1日放送内容FEBC ONLINE キリスト教インターネット放送内のページ)


二十世紀前半、史的イエス問題についても大きな影響を与えた聖書学者ブルトマンは、「歴史のイエス」と「ケリュグマのキリスト」を完全に区別します。ケリュグマのキリストというのは新約聖書が提示している信仰の中のキリストです。彼の結論からすれば、ケリュグマのキリストの後ろに歴史のキリストがあるという保証はないわけです。にもかかわらずブルトマンは言うわけです。「私自身の信仰にとっては、ケリュグマのキリストで十分である。」
ここで彼の解釈学についても触れておく必要があると思うんです。それは、単に聖書を客観的に分析することによって御言葉の解釈が得られるのではなくて、御言葉と、それを聞く者との間の循環関係によって解釈が成り立つという考え方です。人間は生きている限り、その現場|実存的な環境から問いを発します。これに対して御言葉は、その人に何らかの神の語りかけをする。するとその語りかけを受けた人間は、それによって自分の実存が照らされる。そうするとその新たに照らされた自分の存在から、新しいレベルでまた御言葉への問いかけが発せられる。そうすると御言葉は、同じ御言葉であっても新しい次元でもう一度その人に答える。こういう形で御言葉を聞く者と御言葉との間の循環的解釈が成立するということです。

私はこのようなブルトマンの御言葉の神学については納得するんですけども、歴史のイエスはなくてもいい、ケリュグマのキリストで十分であるというのは、非常に不安定な感じがするんです。ただこのごろ、このブルトマンの気持ちが分かるような気がしてきたんです。ブルトマンは聖書学者として、史的イエスは得られないという結論に達した。しかし信仰者としては、ケリュグマのキリストがすごく大切だと感じた。つまり教会の信仰が伝えてきた主キリストというものは、史的イエスの方法論では到底到達できないということを、ブルトマンは自分の神学全体で訴えているような気がするんですね。いわばケリュグマのキリストというものの大きさを、決して史的イエスの問題に縮小してしまうことがないように、彼はこうした御言葉の神学を展開したんではないかと思うんです。

◆本当のイエス・キリスト
この番組では、最近の、史的イエスという道からイエス像を作り上げるという傾向を、補足するというか、矯正する意図で考えたいんです。それは、もう少し視野を広げるということです。そのことをもって、本当のイエス・キリスト、本物のキリストのアイデンティティーというものをもう少し公平に獲得することができるのではないかと思うんですね。

 聖書学者ブルトマンは聖書に書かれていることがすべて本当にあったことかどうかについて聖書学というおそらく文献学的な手法にたってその成立過程を検証した(つまり疑った)。
 にもかかわらず彼が依然としてキリスト教における神を信じる者であることは「私自身の信仰にとっては、ケリュグマのキリストで十分である。」という言葉から明らかです。
 また「キリスト教における神を信じる者であるにもかかわらず聖書を疑ったからブルトマンはけしからん」などという非難は、あるとしてもあまり一般的ではないと思います。私もキリスト教における神を信じる者ですが、ブルトマンに対してだけでなく、およそそのような非難を他のクリスチャンから聞いたことはありません。
 ですから、キリスト教における神を信じる者は聖書に書かれていることがすべて本当にあったことかどうかについて疑ってはならないなどという決まりはないと思います。


 ではすべて疑ってかかり、その成立過程を自ら検証しようとしているか?というと、私についてはそうでもありません。極端に懐疑的な態度のまさに典型的な現れといえる科学の分野についてさえ皆*1がそうした検証を行ったり一つ一つ疑ったりしているわけではないことからも、別に不当とは思いません。相当不正確な表現になりますが、テレビが付くのが当たり前な世界を受容しているように、私はキリスト教パラダイムを自分のものとして受容しています*2


 私が最初に引用した記事グレッグ・イーガン『ディアスポラ』、ごく簡単にでは以下のように書いていました。

つまり彼のある意味還元主義的な視点というか、以前使った言葉で言えば白骨の観法的な達観によって、イーガン自身のアイデンティティや世界そのものの価値すら解体してしまっており、その世界で生きる意味を見いだせないでいる。

 トランスミューターを追うことをやめてあせらずに〈真理鉱山〉を掘り進む、というエピローグは彼なりのソリューションの表明として読めばわかりやすい(彼の作品ではたいてい最後の一文にそうしたナイーブな宣言が宙ぶらりんに投げ出されており、小説としては稚拙にもとれてしまうのが批判される一因と思える)。だがそれで当の本人が満足していないからこそ、また新たな作品において、価値・価値観の模索が続けられているのだろう。そして現代社会の私たちもそのむなしさと苦悩を共有しているし、共有していないというならそれは嘘だと思う。
 ただ、ブルトマンの言葉のように

「私自身の信仰にとっては、ケリュグマのキリストで十分である。」

 ということで足りると私は思っている。

 ここまでの流れからはやや開き直りというか何かを放棄してしまったかのような態度に読めるかもしれませんが、そういうつもりもなく、少しずつあれこれ読んでいます。


 このテーマに関連して2つの記事にリンクしておきます。どちらも私のスタンスとは多かれ少なかれ異なるようですが、それはそれとして。

finalventの日記 - そういえば昨今のムスリム・カートゥーンだが……

deco★decocool: 「聖書学はそもそも誰のためのものか」つうすげー基本的なお話

 無粋を承知で言うと、decoさんの実体験からくる聖書学にまつわる人々の実際についての話は、finalventさんが書かれた聖書学そのものについての話とは少し話題の内容がずれているように感じました。それはたとえば「科学とは理性を追求するものだ」という言葉に対して「いや、科学なんて所詮象牙の塔の人たちのものだ」「押しつけがましい西欧の価値観の現れだ、というホンネを明らかにした方がわかりやすくていい」というような、位相のずれたやりとりに思えました。


 少し補足すると、〈文書の成立過程や状況いかんとは別に、まさにそこにある言葉がそれ自体として持っている意味に向き合う〉という姿勢の有無こそが(或る意味での)聖書学と、神学の分水嶺ともいえそうです。また上の引用元で紹介されているブルトマンの態度もそういう姿勢の一つでしょう*3。そして今回のこの私の記事も、(現在ではとらえ方が変わっているかもしれない)愛・蔵太さん個人への私信ということでなくキリスト教における神を信じる者は、聖書に書かれていることがすべて本当にあったことかどうかについて疑ってはならないんだろうけど(多分。違いますか、キリスト教のかた?)という言葉そのものに向かい合おうとしてみたものです。

 言葉というものが常に(あるいは、ほとんど)状況依存的にしか発されない文化をもった社会でならば、その発話状況や発言者の属性、文章ならその成立過程が絶対に重視されるのでしょうけれど、言葉にはそうではない在り方もあるという意味で、

少し論点が違うのですが、日本人は、現代日本人でも、若い層でも、はてなでもそうですが、言葉というものをコミュニケーションとしてしてのみ見ているので、世界に相対になってしまう。しかし、西洋においてロゴスが世界を作ったという、絶対世界と言葉と私、という関係性がまるでわかっていない。

 という言葉を山の手の日常 - 朱を入れるへのコメントのときに引き続いて引用しておきたくなりました。

*1:科学者もすべて自分で検証し直しているわけではないし、まして一般人は科学の成果のみをほとんどただ所与のものとして受け入れているといっていいでしょう

*2:多様な形で存在しているのに「キリスト教パラダイム」とひとくちに言うのはあまりに粗雑すぎますが、自分の世界観のディテールを書くには力不足ですし、そうしたディテールの表現は個別の事柄についての意見を通してのみなしえるようにも思います

*3:ブルトマンについてはおそらく少し違っていて、イエスの言葉が持っている意味そのものでなく、イエスの言葉がそれ自体として個人的に「この私」に語りかけるメッセージに焦点が合わせられているということでしょうけど