グレッグ・イーガン『ディアスポラ』、ごく簡単に
ここ1週間ぐらいのうちに読んだ本で何冊かよかった本のことを書こうと思ったら、『ディアスポラ』について少し長くなった。個別の記事に分けて書こうと思う。
- 作者: グレッグ・イーガン,山岸真
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2005/09/22
- メディア: 文庫
- 購入: 11人 クリック: 360回
- この商品を含むブログ (327件) を見る
イーガンの中では個人的にかなり楽しめた。ステープルドンが引き合いに出されるそうだが、そんな感じもする(ステープルドンはもう何十年も前に読んだのでほとんど忘れた)。イーガンは意外と古いタイプの作品を書くというか、最新の科学的知見(もどき)を取り去れば後の骨組みは昔ながらのテーマで成り立っているんじゃないか、とこの作品を読んで思った。
私がこの作品に好感を持つのは作品中の「トランスミューター」という存在の描き方をある形で解釈しているからかもしれないけれど、とするとイーガンはグノーシス的な世界観を前提としていることになり、そこはやはり不満が残る。しかし今書いていて思ったのだけど、それはイーガンの作品群を通じた主題にかかわることであって、イーガン自身が苦悩しているのだと思う。つまり彼のある意味還元主義的な視点というか、以前使った言葉で言えば白骨の観法的な達観によって、イーガン自身のアイデンティティや世界そのものの価値すら解体してしまっており、その世界で生きる意味を見いだせないでいる。
トランスミューターを追うことをやめてあせらずに〈真理鉱山〉を掘り進む、というエピローグは彼なりのソリューションの表明として読めばわかりやすい(彼の作品ではたいてい最後の一文にそうしたナイーブな宣言が宙ぶらりんに投げ出されており、小説としては稚拙にもとれてしまうのが批判される一因と思える)。だがそれで当の本人が満足していないからこそ、また新たな作品において、価値・価値観の模索が続けられているのだろう。そして現代社会の私たちもそのむなしさと苦悩を共有しているし、共有していないというならそれは嘘だと思う。
ただ、ブルトマンの言葉のように
ということで足りると私は思っている。
「私自身の信仰にとっては、ケリュグマのキリストで十分である。」