詩というマーケット


 今日朝日新聞をちょっと読んでいたら、韓国の現代詩についての記事があった。なんでもあちらでは詩集がよく売れているらしい。日本は世界的に見ても詩がまるで売れない国だそうだ(このあたり記憶に頼って書いているので表現は少し違ったかもしれない)。

 たしか10年ぐらい前からなんとなく思っているのだけど、昔はともかくとして、現代では歌・音楽が詩の役割を担っているのだろうと思う。詩の役割といま書いたけれど、1分ほどでラフに定義してみるとすればたとえば「字面の意味を示すだけにとどまらず、含蓄や情感を持って直接響き、受け手に何かしらの余韻を残す言葉の連なり」といえるかもしれない。現代、言葉によって多感な若者に大きな影響を与えているのは、あるいは多感な若者がメッセージを求めるのは、乱暴に言えばいわゆる(もっとも広い意味で)J-POPといわれるもの。
 歌・音楽は強い。音が感覚に直接訴求する。演奏されるサウンドはそれ自体の「かっこよさ」とともに、言葉のまさにBGMとしても良く機能する。

 あと、漫画。漫画も強い。絵という空間的広がりを提示しやすい表現方法と渾然一体となり、物語の中で、しばしば登場人物の台詞として、あるいはト書きとして提示されるフレーズ。

 いまなんとなく思ったけど、歌も漫画も、表現手段として表現者側が今日の日本で選ぶことの多いものだということもあるかもしれない。と書いてみると稚拙な表現だけど、内側から絞り出すようにしてやむにやまれず生みだす、しかもそれを自分は生業にしていくのだという信念を持つのはその2つが主になっている印象はある。

 ゲームというのも大きな舞台なんだろうし、これからはますますその存在と影響力は大きくなっていくのだろうけれど、詩が占めていた地位・役割に取って代わったプレイヤーとしては理解しづらいし、あまり私は知らない。


 もちろん詩は詩で、日本でも著名でよく売れる詩人として谷川俊太郎とか茨木のり子などが記事には例に挙がっていた。他には銀色夏生も思い浮かぶ。ただ、失礼かもしれないけど、マーケットとしてはかなりニッチな感じはある(内容がどうこうということではなくて)。


 歌・音楽は、ある意味で芸能として完成された分野というか、消費者のリサーチに基づいた商品開発が行き着くところまで来たという感じなのであまり個人的には受け手として期待できないかなと思う。もちろん個々に見れば優れた作品、誠実な「アーティスト」はたくさんいるけど、業界としての雰囲気が好きになれない。結果としてメッセージソング的なものは最近あまり聴いていない。

 漫画は、歴史を経て既によく練られたメディアだと思うけど、と私がどうこう言うのもおこがましいほど懐が深い表現手段だが、性と暴力に偏った作品が多いのであまりその玉石混淆の中から積極的に発掘する気になれない。というのはまあ単なるわがままなのはわかっているんですが。


 とぼんやり考えていてさっき思ったんだけど、今日ではというかたとえば平成に入ったぐらいからは、インターネットのいわゆる「ホームページ」こそが(かつての、と限定を付けなくてもいいかな)詩の役割を担っているのかも。

 どちらかといえばそのような「ホームページ」は女性が作成・運営する割合が多いと思うけど、そもそも詩に親和性が高いのは女性だからそれも別に不自然ではない。

 ここでいう「ホームページ」についての説明は面倒なので省く。ブログは?と考えてみたけど、ブログはまたちょっと違うというか、新たな困難を抱えたツールだと思う。コミュニケーションのハードルが低すぎて、日常との断絶が足りない。話し言葉に流されやすすぎる。というのは詩との相性でいえば、という話だけど、そもそも書き言葉には書き言葉なりの持ち味とメリットがあるから、「コミュニケーションが容易すぎること」は詩との相性に限った話ではなくブログそのものの弱点といえるかもしれない。
 自分の内心の真情の吐露・自己のexpressionを真摯に/あるいは投げやりに行う上で、不特定多数の受け手との距離を適切に保つというのはほとんど必要条件とも言えそうだが、ブログは今までのメディアと違って、ややもすると距離が近くなりすぎるという面白い特性を持った存在だと思った。


 とはいえ元々ブログ論に入るつもりはあんまりなくて、ただ詩という表現手段の魅力を改めて考えてみたかった。
 ここでいう詩には、現代詩だけでなく広く俳句・短歌などの定型詩、また叙情詩だけでなく叙事詩なども念頭にある。