嫌いという感情の取り扱いの難しさ


 野猫さんからコメントをいただいたのがきっかけで昨日、なんとなく『人を〈嫌う〉ということ』をぱらぱらと読んでみた。
 中島義道のこの手の本は、タイトルからしてうんざりさせられる。正確に言えば、タイトルが示唆している事柄についていくつか嫌な思い出がよみがえるので読もうという気になれない。だが、これもいつもそうなのだが、いざ読み進めてみると面白い。


ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)


 ただ、この手の本は誤解されがちというか特有の問題がある。その問題について本書そのものが初めの方できちんと触れているので、引用してみる。18ページ。

 私はまず、われわれは誰でも他人を嫌うこと、しかも―残酷なことに―理不尽に嫌うということを教えたい。それが自然であることを教えたい。しかし、自然であることとそれを単純に容認することは別です。ここに、われわれに自然である数々のいわゆる悪の問題が広がっていきます。
 もし、それをそのまま放置することが大層悲惨な結果をもたらすとすれば、われわれは自然に逆らってでも何か不自然な仕掛けをしなければならない。

(引用文中の強調部分は原文では傍点が付されている)

 この本自体はたいへんな賞賛を受けると思うのだけれど、その際読み飛ばされがちな部分が上記引用部分ではないかと思う。


 もう少し前ではかなり鋭い指摘がある。10ページから11ページにかけて。

 (嫌いという感情は:引用者注)性欲に似ているのではないでしょうか。
(中略)
 とすれば、われわれは自他のうちに「嫌い」を確認したら、いたずらに恐怖心を募らせたり、無理やり抑圧したりすることはやめて、冷静沈着に正視し、その凶暴性を適当にコントロールし、それを自分の人生を豊かにする素材として活用すべきでしょう。

 おそらく日本では、このメッセージは「負の感情を抑圧しちゃだめだ!」という部分ばかりが強調されて広まるのではないかと思う。それはそれでそれなりに意義があるのだろうけれど、そのメッセージを受け取った人は嫌いという感情をコントロールできず、逆に嫌いという感情にコントロールされるだけに終わりそうだ。
 いや、それは少し言いすぎかな。こうした一連の言説によって楽になる人も多いだろう。

 この本を読み終えていないので現時点での散漫な話になるが、この種の本には珍しく参考文献を大量に付したり、……というかこの話題はなかなかこうということが言えないので強引に打ち切りたい。ただ性欲に似ているという指摘はまさしくその通りだと思う。それを否認したり黙殺することにも、逆に「自然な感情だから」といって大いに称揚することにも、どちらにも重大な問題があるという意味で。

 それにしても微細なニュアンスを伝えるのは難しい。読み取るのも難しい。

 私自身の現時点での考え方は前回の「ネガティブなことは書くな」という抑圧と、それへの反発 - 夏のひこうき雲や、ポジ・ネガと多数派・少数派の構図を重ね合わせることの危険性 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - モヒカン族に一応十分書いたと思う。

 なのにこの記事を書き始めたのは、先ほど届いたメールマガジンの中に「STEP 166 『嫌なことを認める』」という回のものがあったから。

 このメールマガジンは前から読んでいる。今回の全文もネットに掲載されているので読まれたらいいと思う。

 セレンディピティみたいなものを感じたので、今少しの時間で書いてみましたが、まったく不十分な話でした。