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 忘れた頃に更新するレビュー。

 私自身このカテゴリーをほぼ忘れた頃に、そこはかとない促しをある方から受けて思い出しました。それがたしか数ヶ月前です。


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一日中ツバメは飛び、夜になって町に着きました。「どこに泊まったらいいかな」とツバメは言いました。「泊まれるようなところがあればいいんだけれど」

それからツバメは高い柱の上の像を見ました。

「あそこに泊まることにしよう」と声をあげました。「あれはいい場所だ、新鮮な空気もたくさん吸えるし」そしてツバメは幸福の王子の両足のちょうど間に止まりました。

「黄金のベッドルームだ」ツバメはあたりを見まわしながらそっと一人で言い、眠ろうとしました。ところが、頭を翼の中に入れようとしたとたん、大きな水の粒がツバメの上に落ちてきました。「何て不思議なんだ!」とツバメは大きな声をあげました。「空には雲一つなく、星はとてもくっきりと輝いているというのに、雨が降っているなんて。北ヨーロッパの天候はまったくひどいもんだね。あの葦は雨が好きだったが、それは単なる自己中心だったし」

すると、もう一滴落ちてきました。

「雨よけにならないんだったら、像なんて何の役にも立たないな」とツバメは言いました。「もっといい煙突を探さなくちゃ」ツバメは飛び立とうと決心しました。


<版権表示>

Copyright (C) 2000 Hiroshi Yuki (結城 浩)
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プロジェクト杉田玄白正式参加作品。

<版権表示終り>

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 ツバメは大きな水の粒を雨粒だと決めつけ、よく晴れた空なのに雨が降ってくるのは不思議だと訝しがる。雨ならばそれは不思議なことだが、言葉を話し感情を持つ幸福の王子が涙を流すのは不思議ではない。事実であるとして認識していることがらは、じつは不確実なものだ。認識は不確実なものだ。にもかかわらず自分が前提としていることがらを何ら疑わないで次の判断を行うということは私たちにもよくあることだろう。
 ただ、ツバメの驚きととまどいは理解できる。自分が一日中飛んできて到着した町で、泊まれるような場所を見つけ、「黄金のベッドルーム」だと満足して眠ろうとしたその矢先に水滴が落ちてきたのだから。そのような経緯と状況の中で、ツバメが理不尽な目に遭ったという驚きと怒りを抱くのもわかる。

2

 ツバメはその驚きと怒りをこの夜たどり着いた当地北ヨーロッパの天候のせいにし、「まったくひどいもんだ」と不平をいう。新しい環境で自分が理解できない事態に遭ったとき、その原因を新しい環境のせいにするのは見やすい心の動きだし、なるほど理にかなっている。だがその判断は間違っていることもある。

 何かを他者や新しい外部的要素のせいにすることが結果的に間違っていることもある、だからといって不平を言っていけないわけではない。〈完璧に正しい判断をするまでは黙していなければいけない〉というわけではない。不平や怒りを抱いてもいいが、常にその感情が後の新たな認識によって上書きされる可能性に向かって開かれていたい。

3

 ツバメは、「北ヨーロッパの天候はまったくひどいもんだね。あの葦は雨が好きだったが、それは単なる自己中心だったし」と言う。ここに論理の飛躍がある。補ってみると、「北ヨーロッパでは晴れていても雨が降る」「晴れていても雨が降るなんて、まったくひどいことだ」「雨が降るなんてまったくひどいと自分は思ったが、それは間違っていない」「そういえば自分と違ってあの葦は雨を好んでいたけれど、あれはただの自己中心だから、あの葦の判断を基準にすべきでない」というようなことになると思う。他の補い方もあるだろう。

 雨を好むか嫌うかといったことは単にそれぞれの好き嫌いの問題で、「雨が好きな者は自己中心」という理屈は間違っている。むしろ、ある自然現象に対する好みが自分と違うからといって「自己中心」と評価することこそ自己中心な態度だ。「自分と同じように雨を嫌うことこそが正しく、そうでない者は間違っている」という判断を前提としているからだ。
 こうした否定的な評価というのは、自分が普段から後ろめたく思っていることや、以前自分が言われた不愉快な表現が、そのまま他者への評価として言明されることが多い。いわば鏡の中の自分を憎んでいるがゆえに、見当違いな場面で他の人にその(自分が言われたら嫌な)罵倒を行いはじめるわけだ。

 ツバメがそのように葦のことを思い出して無関係な場面で引き合いに出すのは、葦に拒絶された怒りがまだ続いているからだろう。無理もない。幸福の王子の像の足下に眠ろうとしたのは、葦に首を横に振られた、まだその日のこと。
 誰かに拒絶されて不愉快になるのは、相手に拒絶されることで自分の価値の低さを見せつけられ、「相手にとって自分は、自分が思っているほどの価値がない存在だった」ということを思い知らされるから。しかしそのことを認めたくない人は、相手の欠点に意識の焦点を合わせ始めるようになり、ときには自分自身の弱点や欠点を相手に見いだした気になり、拒絶されたことが自分にとってよかったと納得しようとする。

4

 このツバメの良いところは、行動力があり思い切りが良いところ。

「雨よけにならないんだったら、像なんて何の役にも立たないな」とツバメは言いました。「もっといい煙突を探さなくちゃ」ツバメは飛び立とうと決心しました。

 またしても自分中心に、雨よけになるかどうかという観点だけから短絡的に像の価値を評価してしまってはいるが、ただ愚痴を言いながらその場にぐずぐずと留まるのではなく、新たな場を求めてすぐさま行動を始めている。